「令和」の新元号誕生で、大伴旅人ゆかりの大宰府の坂本八幡宮は御朱印を求める大勢の観光客に対応しきれずに、職員や臨時の補助の人たちも疲労困憊になられ一時ストップされたと聞く。大変な賑わいだったようだ。
大宰府天満宮や九州国立博物館なども相当な人出であったと聞く。
梅花の宴については、「古都太宰府保存協会」がその会誌「都府楼」で、平成三年に「梅花の宴」「筑紫万葉の世界」の号で特集を組み発行されていた。
その上記二冊の冊子を注文し手元に届いた。「令和」の命名者だといわれる中西進氏の「万葉・梅花の宴」という6頁にわたる一文があり、旅人がなぜ「梅花の宴」を催したかについてふれている。
二冊の冊子が万葉集や万葉の宴について詳しく説明が為されており、これだけのものを網羅した刊本はなかろう。良い買い物をした。
大宰府周辺にかかわる書籍が数多く発刊されている。興味がおありのかたは「書籍のご案内・販売」からどうぞ。
一昨日から昨日の未明にかけては、5~6時間ものすごい雷雨に見舞われた。しかし昼間は一転して晴れ間も見えていた。
昨晩も九時ころから雨が降り出し、風鈴の尾を引きちぎるのではないかと思わせる風をともなった。12時間はゆうにそのような状態であった。
これはまさしく「梅雨入りですな~」
朝食後晴れ間が見えたところを見計らって朝散歩、風は相変わらず強くて時折体を持っていかれるような突風が吹く。
絶壁頭にかぶった帽子は飛んでいきそうで、これは眼鏡とともに脱いでしまった。
散歩コースの水無川は、そんな大雨を集めて水かさを増し、川底に繁茂している草木をなぎ倒してごうごうと流れている。
そんな音もなんだか小気味よい。
あちこちのお宅の紫陽花がざんぶりと雨を被り、身奇麗にいろいろな色合いで咲き誇っている。この時期の風物詩である。
紫陽花の絵手紙とどく 梅雨の入り 津々(季かさなり、お粗末)
帰宅後シャワーを被ると、少々湿気はあるものの風が爽やかである。
明日の午後あたりには天気は回復し、一週間予報でも雨の気配は伺えない。本格的夏の到来である。
約三ヶ月「熱中症で倒れました」というご報告をしなくて済むように、大いに水を飲んでがんばりましょう。
各位様、御自愛ください。
追記:お昼過ぎから太陽が見えてきました。数日間お天気がつづくのを踏まえて、北九州地区(熊本も)の梅雨入り宣言は出されないようです。
中旬以降という事になるようです。14:10記
已上
為見廻被差越
使者真竹子
十本鮑之なし物
小壷一ツ到至来
則賞玩一段
味能喜悦候恐々
謹言
卯月廿三日 三斎 (ローマ字印)
長岡監物殿
I 様からご所蔵の御品の画像のご提供を頂いた。ご厚意に感謝申し上げる。
ご紹介している写真は、お送りいただいた二枚の映像をパノラマ処理をしてつないだものである。
内容は長岡監物の見廻の贈り物に対する礼状である。
(見舞いのために使者を差し越され、真竹の竹の子十本・アワビのなし物?の小壷が到来、すぐに賞玩したが一段と味がよく悦んでいる)
この書状は非常に興味深いものがある。それはこの書状が書かれた時期である。
細川忠興が隠居し三齋と名乗るのは、元和六年の暮である。監物という名は家老・米田家代々の当主の名乗りだが、三齋忠興代の米田家当主は是季である。
是季は慶長十二年(1607)細川家を退去している。その原因は定かではないが妹婿長岡(飯河)肥後とその父・豊前が誅伐されたことに対する抗議と思われる。
■綿考輯録から「飯河豊前・長岡肥後誅伐事件」(一)
■綿考輯録から「飯河豊前・長岡肥後誅伐事件」(ニ)
是季は三齋の隠居後、忠利の代の元和八年(1622)春に忠利が呼び返す形で細川家に帰参している。退去の期間は15年に及んでいる。
その後、寛永二十年(1643)の正月、当時の当主光尚が八代に三齋のもとを訪ねるに際し、三齋はこの是季と沢村大学を伴うように達している。
つまり帰参した元和八年から寛永二十年までの間の21年間、細川家を退去していた期間15年を加えると通算36年間、是季は三齋に目通りができていないことになるが、この目通りをもって長い確執が解きほどかれたと考えたい。
三齋は正保二年(1645)十二月に亡くなるから是季が目通りを果たしてからわずか三年足らずの事である。
つまり、この書状はこの三年弱の間のものではないか。ひょっとすると目通りがかなった直後の卯月の事かもしれない。
ただ気になるのはローマ字印である。この時期果たしてローマ字印を遣っていたのかどうか確かな情報を知らない。
米田家はこの後代々、世襲家老三家(三卿家老)の二番家老として細川家に仕えることになる。
I 様には写真の公開とブログでご紹介することを快く御承引いただいた。重ねて御礼申し上げる。