「入り鉄炮に出女」といわれるように、特に箱根の関所での女性の通行については、なかなか厳しいものがあったらしい。
細川忠興(三齋)が側室を連れて江戸を上下していたことはよく知られている。
そんな中、箱根の関所役人のやりように腹を立て、これを切り殺すという事件を起こしている。気短な性格だといわれる忠興公だが、その最たるものかも知れない。
この史料では、その日時が判らないが、私はこの女性は「小やや=明智次左衛門女・万姫生母」ではないかと考えている。
大名の夫人は元和9年江戸居住が定められ、忠利公夫人以降当然の事ながら定府している。
ところが側室たちは江戸を上下していることが史料によって伺える。藩主が伴っての事だと思われる。
それはその人物が、江戸でも熊本に於いても出産していることから伺える。
例えば綱利の側室仁田氏は、天和2年熊本で伊津(清水勝貞室)を出産し、貞享4年江戸で嫡男・與一郎を、元禄2年には二男・吉利を出産している。
宜紀は21人の子をなしているが、10人が夭折している。そのほとんどがまだ家督前(6子迄)であるという事も面白い。
宜紀には正室は存在しないが、側室は6名が窺える。朱書きは江戸生まれ
■小野田太郎右衛門女・與幾 1子・竹之助(夭)、3子・亀(夭)、5子・春、名代(夭)、6子・萬次郎(夭)
■鳥居氏女・際 2子・倉、蔵(夭)、4子・八三郎(夭)、8子・富(夭)、10子・宗孝、12子・彌々、喜和(宗対馬守義如室)、
14子・照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)、21子龍五郎(夭)
■(姓氏不詳) 7子・村(夭)
■安野氏女・民 9子・勝(夭)、11子・八代、花(松平讃岐守頼恭室)、17子・衛世、悦(米田是福室)、18子・津與(小笠原長軌室)、
20子・興彭(長岡圖書養子・刑部家)
■岩瀬氏女・利加 13子・重賢、15子・豊、常、岺(織田山城守信舊室)、18子・幾、常、成、錩、軌(細川興里室)
■友成氏女・佐衛 16子・紀休
こうしてみると「鳥居氏」「安野氏」「岩瀬氏」等が、江戸と熊本で出産していることが判る。側室たちが「江戸妻」「国元妻」という存在ではなかったことが判るし、大変な旅をして江戸を上下していたことになる。
そのことは治年公の生母・此井(重賢・側室)の話として「船旅に弱くて、中国路をお願いしたが、おしかりを受けて国元には連れて帰らぬぞ」と仰せあったという記録が上月半下の話として残されている。(川口恭子著・重賢公逸話p147)
大名夫人の箱根関所通過について、加藤利之著「箱根関所物語」では、特に細川家の夫人の取り扱いには気を使っていた様子がうかがえる。忠興の話からすると随分時代が下っているが、寛政四年四月、細川治年の没後、その夫人・瑤台院が湯治と称して熊本へ帰国する際に当たってのことが委敷く紹介されている。
女性は「髪改め」がご定方と定められているらしいが、大名夫人らは、御駕籠を関所の上段にあげ、「人見女」が駕籠を開けて中を覗ってそれですませたことが記されている。忠興はそのことさえ、許しがたいことと考えた訳であろう。
切りすてにするには及ばなかったのではないかとも考えるが、戦国乱世の気風が残る時代の荒々しさや大名の気概を感じさせるものがある。
以下の藩主たちにも同様の事が窺えるが、今回はこれまでとする。