津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■箱根を通った藩主夫人や側室たち

2019-07-09 10:45:50 | 歴史

入り鉄炮に出女」といわれるように、特に箱根の関所での女性の通行については、なかなか厳しいものがあったらしい。
細川忠興(三齋)が側室を連れて江戸を上下していたことはよく知られている。
そんな中、箱根の関所役人のやりように腹を立て、これを切り殺すという事件を起こしている。気短な性格だといわれる忠興公だが、その最たるものかも知れない。
この史料では、その日時が判らないが、私はこの女性は「小やや=明智次左衛門女・万姫生母」ではないかと考えている。

           

大名の夫人は元和9年江戸居住が定められ、忠利公夫人以降当然の事ながら定府している。
ところが側室たちは江戸を上下していることが史料によって伺える。藩主が伴っての事だと思われる。

それはその人物が、江戸でも熊本に於いても出産していることから伺える。
例えば綱利の側室仁田氏は、天和2年熊本で伊津(清水勝貞室)を出産し、貞享4年江戸で嫡男・與一郎を、元禄2年には二男・吉利を出産している。
宜紀は21人の子をなしているが、10人が夭折している。そのほとんどがまだ家督前(6子迄)であるという事も面白い。
宜紀には正室は存在しないが、側室は6名が窺える朱書きは江戸生まれ
      ■小野田太郎右衛門女・與幾  1子・竹之助(夭)、3子・亀(夭)、5子・春、名代(夭)、6子・萬次郎(夭)
      ■鳥居氏女・際  2子・倉、蔵(夭)、4子・八三郎(夭)、8子・富(夭)、10子・宗孝、12子・彌々、喜和(宗対馬守義如室)、
              14子・照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)、21子龍五郎(夭)
      ■(姓氏不詳)  7子・村(夭)

      ■安野氏女・民  9子・勝(夭)、11子・八代、花(松平讃岐守頼恭室)、17子・衛世、悦(米田是福室)、18子・津與(小笠原長軌室)、
               20子・興彭(長岡圖書養子・刑部家)
      ■岩瀬氏女・利加 13子・重賢15子・豊、常、岺(織田山城守信舊室)、18子・幾、常、成、錩、軌(細川興里室)
      ■友成氏女・佐衛 16子・紀休

こうしてみると「鳥居氏」「安野氏」「岩瀬氏」等が、江戸と熊本で出産していることが判る。側室たちが「江戸妻」「国元妻」という存在ではなかったことが判るし、大変な旅をして江戸を上下していたことになる。
そのことは治年公の生母・此井(重賢・側室)の話として「船旅に弱くて、中国路をお願いしたが、おしかりを受けて国元には連れて帰らぬぞ」と仰せあったという記録が上月半下の話として残されている。(川口恭子著・重賢公逸話p147)

大名夫人の箱根関所通過について、加藤利之著「箱根関所物語」では、特に細川家の夫人の取り扱いには気を使っていた様子がうかがえる。忠興の話からすると随分時代が下っているが、寛政四年四月、細川治年の没後、その夫人・瑤台院が湯治と称して熊本へ帰国する際に当たってのことが委敷く紹介されている。
女性は「髪改め」がご定方と定められているらしいが、大名夫人らは、御駕籠を関所の上段にあげ、「人見女」が駕籠を開けて中を覗ってそれですませたことが記されている。忠興はそのことさえ、許しがたいことと考えた訳であろう。
切りすてにするには及ばなかったのではないかとも考えるが、戦国乱世の気風が残る時代の荒々しさや大名の気概を感じさせるものがある。
以下の藩主たちにも同様の事が窺えるが、今回はこれまでとする。

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■御侍帳・家紋から考える(11)

2019-07-09 06:19:25 | 家紋

                                                                  

 ■道家次右衛門は「道家素雄家(南東10-9)」の 6代目・貞平(次右衛門)もしくは7代目・金十郎(次右衛門)のいずれかと思われるが、
  この史料からは確定できない。
  家紋「丸に大の字紋」今一つは正式名称は判らないでいる。ご存知の方はご教示いただきたい。
  数年前、金峯山麓の民家の敷地内に或る墓所を訪ねてお墓を確認、同行のN君が撮影した写真をもらったのだが、現在行方不明である。

 ■道家伊八は「道家重三郎家(南東10-8)」の 6代目・伊八(養子平蔵、二百石当時百五十石)である。
  「文化九年三月:跡部喜膳により殺害さる(先祖附・熊本藩年表稿)」とある。
  この「侍帳・家紋付」の成立については編者の松本寿三郎先生も触れておられぬが、この事件から少なくとも文化九年三月以前であることが判る。
  家紋の一つは本家同様「丸に大の字紋」今一つは「蛇の目紋」である。

 ■道家玄養は医家「道家大春家(南東56-3 医)」の5代・玄庵(玄養・玄昭)かと思われる。
  家紋については正式な名称を知りえない。ご存知の方はご教示いただきたい。

 ■木慶助は「木万雄家(南東10-11)」の4代目である。細川斎樹公御書出(文化九年)百石が残る。
  家紋は「丸に十字」紋かと思われるが、細い線で描かれている。

 ■富永源蔵は「冨永慶三家(南東10-23)」の5代目である。
  家紋は「大鞠挟紋」である。

 ■戸北久八は「戸北次助家(南東61-10 一代御中小姓)」の2代目である。
  家紋は「中陰七宝に丸」か?

 ■筑紫権左衛門は「筑紫弥一家(南東11-4)」の7代目か?、権左衛門を名乗る人物が多いので確定しがたい。
  上野助・広門を初代とする家であり、
家紋は筑紫氏の家紋である「目結紋」である。

 ■筑紫丹宮は「筑紫壮之允家(南東11-2)」の5代・丹宮(左右馬)か?、6代目も同名であるが御書き出しの年代からすると少し下っている。
  家紋は弥一家同様、「目結紋」である。

 ■筑紫英助は「筑紫門吾家(南東11-5)」の4代目、こちらは上記2家とは祖を異にする。
  家紋は「平角に田文字」紋とでもいうか。ご存知の方はご教示いただきたい。

 ■千原作右衛門の名前は「細川家家臣略歴」には名前が登場しない。
 ■千原津内は「千原勤家 (南東11-7)」の3代・只八(津内)である。
  家紋は共に「右一つ丁子巴紋」である。

 ■陳佐左衛門は「陳半十郎家 (南東11-1)」の何代目であるかは、代々が佐左衛門を名乗っているので特定しがたい。
  初代は天草島原の乱で天草四郎の首をとった佐左衛門である。
  家紋は「丸に陳の字紋」今一つは「丸に武田菱紋」である。

 ■笠軍次は「笠慎三郎家(南東11-又々8)」の4代目である。
  家紋は「三つ結」今一つは大変ユニークな紋で皆目わからない。


 ■沼田勘解由は【青龍寺以来】の「沼田小一郎家賜長岡姓 (南東11-9)」 の5代・弥傳(勘解由・延久)であろう。
  家紋は「輪違い紋」及び「左三つ巴紋」である。

 ■沼田小左衛門は分家筋で「沼田清人家(南東11-11)」の 5代目・亀宮郎(小右衛門)である。
  家紋は本家に同じである。

 ■沼田子之助も同様分家筋で「沼田門太家(南東11-13)」の 7代・子之助(養子)であり 実・沼田勘解由弟である。
  家紋は本家に同じである。

 ■沼 四郎左衛門は丹後以来の「沼 四郎家(南東11-12)」の 10代目・八之允(四郎左衛門)か。

 ■額田佐兵衛は「額田権次家(南東11-10)」の5代目・多吉(佐兵衛・和田理 御鉄炮十挺頭)か。
  額田氏は細川忠利の側室額田氏(尚房生母)の弟が初代の父・佐兵衛である。
  家紋は「扇紋」である。 

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