津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ガラシャ夫人自害の日

2019-07-17 10:02:17 | 歴史

                                                                      

 今日は細川忠興夫人・ガラシャ(明智珠)が自害された日(慶長5年(1600)7月17日)である。
細川家では現在では宗教を異にされているから表立った行事といったものはないのだろうが、泰勝寺の四つ御廟や祖祀堂には香華が手向けられていることであろう。

 ガラシャの死については「霜女覚書」が残されているが、その状況を示す有力な情報である。
しかしながら、その編年が事件から半世紀ほどを経過しての回想であることから、そのすべてが真実であるのかどうかは判断しがたい。
一方、キリシタン史料に於いても、「一刀のもとに首を落とした」とか「火薬を撒いて火をつけた」などという記述は、その情報源は何処なのかと首をかしげざるを得ない。
その「霜」は、「御さいこを見届けしまひ候て罷出申候」と記しているところから、部屋の外から長刀で介錯したというのが真実だと考えたい。
「火薬を撒いて・・・」について私は、殉死者の一人「河喜多家」の史料に残る、「鴨居に火薬を仕掛けた」という具体的なやり方に、真実を見る思いがする。
ガラシャをはじめ、小笠原・河喜多・金津などが殉死して御供をしているが、御身に近い女性たちも御供をしたのではないか。とても御一人とは考え難い。紅蓮の炎に包まれて屋敷は焼け落ち、そのような疑問さえもかき消されてしまった。


ガラシャ夫人に関するキリシタン関係資料、其の他についてご厚誼頂いているSN様からHPやブログのご紹介を頂いたので、ここに取り上げておく。
           聖マリア大聖堂

           ブログ「模糊の旅人」

           聖母マリア受胎告知教会の彫像や壁画

 

 

 

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■熊本の郷黨

2019-07-17 06:32:07 | 歴史

 先輩の話をきくと、昔は村単位で若者が集まり、よくケンカ沙汰があったそうだ。
川を挟んで悪口を言い合い、石を投げ合って怪我人が出たこともあるという。
万延元年、藩校時習館の訓導・井口呈助が「郷黨私儀」という一文を認め建白している。時習館改革の根拠とされるものなのだそうだ。
郷黨(連)同士の喧嘩沙汰は「郷黨の喧嘩がなければ、士気が振るわない」と記している。これは井口の意見ではなく世間がそう認識していたのだろう。
井口は「血気に任せ争闘に及ぶことを、勇気荒者と心得るのはもってのほかの僻事」だと断じている。
「郷黨」はもともと、時習館における教育とは別に、その地域/\に句讀師や習書師などを置いて勉学に及んだのが始まりらしい。
山崎・通丁・千反畑・内坪井・京町・古京町高麗門の六地区に屋敷(ニ間半×五間)を求めてこれにあてた。
その他の町にも黨(連)ができている。

井口自身も後には高麗門連の首領となり、その郷黨が「神風連の変」や「西南の役」に参加して多くの人が命を落としている。
しかしそれぞれの郷黨(連)の行動は一致団結した確固たるものではなかったようだ。資料は「郷黨の向背」と記す。
肥後武道史からご紹介する。

                      

                                               +ーーー甲ーー称号なし(佐久間連?) 戦役ニ應ゼズ
                        +---通丁連---+---+
          |      |    +----乙ーー櫻井町連  大部分應ズ
                          |      |
          |       +---------丙ーー水道町連   参加・不参加相半バス
                          |
   ■通丁連-----+---佐野連
                        |
         +---吉川連

         +---甲  戦役ニ應ズ
   ■千反畑連--+
         +---乙  戦役ニ應ズ

         +---甲(山崎實學)
   ■川崎連----+
         +---乙(宮川連?) 戦役ニ應ズ

                               +ーーー甲ーー 戦役ニ應ゼズ
                          +---柳川町連---+
          |        +----乙ーー 戦役ニ應ズ
   ■京町連----+
          |                +ーーー甲ーー池邊氏隊長 悉ク應ズ
                          +---赤尾口連---+
                 +----乙ーー櫻井町連 應ゼズ

                     +ーーー甲ーー正義連? 悉ク應ズ
                          +---------------+
   ■坪井連 ---+         +----乙      應ゼズ
                  |
                          +---------------------丙(坪井實學連) 應ゼズ(官軍ニ應援)

   ■古京町連(或ハ島崎連) 應スルモノ多シ

   ■高麗門連  九年敬神黨ノ變ニ加ハル(加ハラサルモノ十年ニ應ス)

   ■本山連   應セルモノアリ

   ■竹部連   九年若クハ十年ニ應ゼルモノアリ

   ■春日連


                            
        井口
呈助(呈吉)   井口岱陽 正は徳、字は子馨、通称呈吉、初呈助岱陽と号す。世禄二百五十石。
                 時習館助教より奉行兼用人となり、後少参事に転ず。平素詩を好み、石を愛す。
                 また左拳陳人の別号あり。
                 明治八年十一月二十三日没す、年五十七。墓は出町往生院。

          
                            

 

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