7中津郡今居村百姓等 | 任 御諚乍恐御理り申上条々之事
申状案 | 仲津郡ノ内 今居村
田畠ノ検地ニ甲乙 | 一、今居村之儀は、余村ニ相替り、田畠御検地甲乙御座候、其内有躰之御竿も御座候、大目、壱段ノ
アリ | 坪ハ七畝、八畝ゟ外ハ無御座候、其上手前罷成御百姓、此前ハ、拾人も弐拾人も御座候故、上之
上ノ村高免 | 村と被 仰付、近村ニ相違、高免被 仰付、年々ニ仕つぶれ申、于今残御百姓共ハ、其下ニ之者
川成高 | 之儀ニ御座候へ共、右之つふれ頭百姓之田地、他村ニ御免をさげ、付申、其上ハ米、又、年々川
| 成高ノ御米、過分ニ弁、上納仕候故、めいわくいたし申候事 はたと
加子役ニメケ | 一、今居村町之儀ハ、岡分之御百姓ニ而御座候処ニ、先年御加子役ニ被 仰付、礑御百姓めけ申由、
| 被及 聞召候而、御加子役被成 御赦免被下候間、忝奉存候処ニ、去年之御免、御奉行衆被 仰
| 候ハ、御水夫被成御免、此忝さハ、何ニて御礼可申上候哉、御免を上ケ、御請仕候へと、稠敷被
脇役荒仕子米薪米 | 仰付、其年ゟ、今居村弥高免ニ罷成申候、岡役御荒仕子米・御薪米・此外御郡役毛頭不残被仰付
| 候故、迷惑仕候事
| 一、其後、浦々ゟ加子御やとい被成、為御賃米、水夫壱人、一日ニ付而、御米弐升宛被下候へ共、り
| やう人なミニ、春秋之御菜米ニ被成、御引次候故、御百姓手前ニ、御米御算用前請取申儀無御座
櫓手ヲ備ウ | 候、今井町中ニ、ろて取申もの無御座候故、小倉ニて、一ヶ月を銀子拾五匁、六匁ニやとい申候て
| 御用之筈、今まてハ合申、致迷惑候事
本加子 | 一、今居村、高九百七拾石余ノ内、本加子ハ、まこも・塚・沓尾ニて御座候、今居町分ニハ、本加子
| 弐人御座候、残町分之御百姓共ハ、先年ゟ船手を存たるもの無御座候条、ろて・岡手二つニ被成
櫓手陸手ノ改 | 御分、前々之岡役ニ被 仰付可被下候、此中も、ろて・おかてノ御改可有御座と奉存候条、今度
| 是非共、二つニ被成下、筋目之岡役被 仰付可被下候、か様ニ申上候も、以来、御百姓仕度奉存、
| 申上儀ニ御座候事
| 一、今居町之儀ハ、右如申上候、年々ノつもりニ、御百姓中つふれ申候間、いつれニ成共、一方之御
| 役目ニ被 仰付可被下候、左様ニ御座候而も、高免ニ御座候間、御面相ニ而も、少被成御心付候
年々質入請出シ得ズ | 而可被下候、殊更、年々しち物を方々ニ置申候て、御役目調申候へ共、終ニ、右之質物請申事無
| 御座候間、今井町之躰を被及 聞召可被下候事
| 右之通、少も相違無御座候間、乍恐、被 聞召分、以来迄、御百性続申様ニ被 仰付可被下所、
| 如件
| 元和九年十一月十三日 七郎兵衛
| 仁兵衛
| 忠右衛門
| 藤左衛門
| 西郡形ア少輔殿 忠五郎
| 浅山清右衛門殿 三右衛門
| 横山助進殿 吉兵衛
| 仁保太兵衛殿 善介
| 惣左衛門
| 又右衛門
| 三七郎
| 與三右衛門
| 三郎左衛門
|
惣奉行等用状案 | 一、右之面書ニ付、被 仰出候事、
忠利裁許 | 一、日比、水夫壱人ニ付、一日ニちん米弐升宛被遣分ハ、御さい米ニ指つき、水夫手前へ不取候段、
| 無紛候間、兵粮米、前かとのことく被遣、其上ニ、村中ゟ仕立候銀、壱人ニ付、拾五匁宛之分を
| 此方ゟ可被遣候、然上ニ、陸役之内、用水普請・道作、御荒仕子人から之事、万小遣ニ申付候、
| 夫から之事、右拾人之水夫手前之分、被成御赦免候事
| 一、御さい米、免被遣候事
| 以上
| 元和九年十一月廿七日 西郡形ア
| 宮部久三郎殿 浅山清右衛門
| 佐方少左衛門殿 横山助進
| 仁保太兵衛
|
【武家文書】肥後熊本藩 /武家文書/太守様・姫様・若様/書状/古文書32
又このような文書がヤフオクに登場している。あと二日、値段はうなぎのぼりになることだろう。
願わくば熊本に残しておきたい史料である。相当な高値になることが予想されるが、年金暮らしの日々金欠病の爺にはなんとも歯がゆいことではある。
細やかな抵抗をしてみようかとも思うが、詮無い結果が見えている。
これが後、ばらばらになり、またオークションに登場することも考えられる。貴重な資料が金儲けの手段にならないよう願うばかりである。
この絵図の成る年は承知しないが、加藤家末期の屋敷割図である。
新町かいわいに幾つかの池が描かれているが、町割りはほどんど代わっていない。
細川忠利が加藤家没落の跡を受けて、寛永九年の暮れに大国肥後に入国した際に屋敷割をするのに際して、その屋敷の規模などを「上々々」とか「上々」「上」などと評価をして書き入れている。
現二ノ丸広場の西には筆頭家老・松井家の屋敷があったが、加藤家時代は加藤右馬允の屋敷であったことが判りこれが最高ランクの「上々々」の屋敷であり、「・さと(佐渡守)」の書入れがある。その右上、後の藩校時習館の位置にある屋敷も「上々々」の書入れがあり、ここには、「下河又左衛門」の屋敷があった。加藤右馬允屋敷の西、空堀を挟んだ反対側には「庄林伯耆守屋敷」があり「上々」として「・伯耆」とあるが、こちらの「伯耆」は志水伯耆(清久)の事であろう。
いろいろな評価が面白いが、加藤家重臣の人たちの位置関係が窺えて面白いし、又細川家の入国時にだれが配置されたのかを「・」で示しているが大変興味深い絵図である。池のあとが現在のどの位置にあたるのか、面影でも残っていないのか、現地を探索してみるのも面白かろう。