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2京都郡菩提村百姓等 | 謹而致言上候事
申状案 |
| 一、京都郡ノ内菩提村、高弐百七拾六石三斗五升余、慶長六年としゟ同八年迄ハ、益田蔵人殿御拝領
| 被成、内ノ御馬乗衆富永忠右衛門尉・伊藤兵右衛門・嶋田與右衛門尉、両三人へ被遣候、伊藤兵
| あらあらしく・乱暴に
未進百姓ノ妻人質 | 右衛門尉殿百姓弥二郎と申者、御年貢御未進御座候ニ付、女房しちニ被召取、あらけなく御せつ
子を殺シ放火自殺 | かん被成候へとも、別ニ可仕様無之候而、十一ニ罷成むす子、八つニ成候むす子、二人共ニさし
| ころし、主ハ家ニ火を付、慶長八年十二月十三日ノ未明ニ、焼死申候、其付、悪所故、蔵人殿御
| 知行御上被成、慶長九年年ゟ、御蔵納ニ罷成、同十三年年迄ハ蔵人殿御所務被成候、定納り弐つ
| (ママ)
| 三分ニ当り申候ニ付、弐つ三分ニ、御郡奉行肥後殿御定被成、其上百姓かしけ申ニ付、諸役目等
| 御免シ被下叓
| 一、慶長拾四年とし、福田善右衛門尉殿、御郡へ御出被成、御免大分御上被成、三つ成ニ被仰付候、
| 同十五年年も三つ成ニ定り申候、同拾六年・十七年年、両年は弐つ八分ニ被成、此時も御未進拾
| (財)
| 五石・廿石宛御座候つレとも、其時迄ハ、牛馬・家材・農道具迄売、納申候へ共、同拾七年とし
| 尽くす
| 多年之つかされニ、御百姓めけ申、明拾八年之根付不罷成候ニ付、御郡奉行衆・御郡代・御惣庄
| 屋以御談合、御郡中御蔵納分ゟ、牛・人を被仰付、荒発被成候、作付之儀ハ、村々百姓作付申候、
| (朱カ)
| 同拾八年とし之御免、御郡奉行小谷又右衛門尉殿御検見之上を以、弐つ三米ニ御定被成、其上御
| 役目半役ニ被仰付候、同十九年年弐つ二分、元和元年年弐つ一分四朱、同弐年年弐つ二分七朱、
| 同三年・四年、両年ハ弐つ四分、同五年・六年、両年ハ弐つ六分、如此年々御免上り、御百姓い
| たミ申候処ニ、元和七年としニ、三分上り申、弐つ九分ニ被召上候、其付、去未進四拾石余出来
| 申候、稠敷御代官衆御さいそく被成候ニ付、牛五疋・米六石四斗ニ売立、御百姓七人・方々ニ在
| (京都郡) (同郡)
| 郷奉公ニ出申、米九石取立申候、又、御加損米九石被下候、又、拾九石ハ下田村性福寺、下久保
| (中津郡)
| 村新介、大橋村惣兵衛、彼三人手前ゟ、御代官衆御加判被成候て、借米仕、御皆済仕候、此米元
| 利共当年壱粒も返弁不仕候間、もはやかり申事も不罷成、めいわく仕候事
| 一、上久保村ノ内、高百五拾石、慶長十八年とし益田蔵人殿ゟ出シ、菩提村同前ニ御上ケ被成候、其
| 内五拾石余、菩提村ゟ出作仕懸り候、今ハ作仕候儀不罷成候間、御郡代・御代官ニ御理り申候へ
| 共、上久保村ニ戻り申儀、御分別不被成、彼飛松分、五拾石ニ、弥々めいわく仕候事
津出ニカシグ | 一、菩提村、浜辺とおく御座候間、余村ニ替、津出ニもかしけ申候、百姓馬持不申候故、駄賃馬斗ニ
駄賃馬 | て下申候、大橋迄、壱石を五升つゝニて出申候、物成百石ニ付、五石ハ御 公儀不知ニ、浜辺ニ
| 違、駄賃ニ而も御未進出来申候、御免御定之時、か様之御指引も不被成、いなかも海辺之村も、
| 平等ニ被仰付、めいわく仕候事
| 一、当春根付之儀、御郡奉行・御代官・御惣庄屋衆ゟ、種々御穿鑿被成候へ共、五拾石余不罷成、御
| (人脱)
荒起シ | 惣庄屋岩熊孫兵衛手永中、御蔵納・御給人ニ不寄、被仰付、牛四拾疋・人百四拾御出被成、荒発
| 被仰付候、又、夏、牛百疋・人弐百五拾人出申、御代官衆・下郡衆・御惣庄屋、しかと御そい被
惣作 | 成、惣作ニ被仰付候、又、草手ニハ、京都郡御蔵納中ゟ、人数百五拾人出申、下郡衆御そい被成
| 御取せ被成候、人数合五百四拾人・牛数合百四拾疋、如此被成候へ共、我々作仕廻候而、おそく
種子米元利程モナシ | 仕付候間、荒同前ニ御座候間、此田ニ植申種子米、元利ほとも無御座、めいわく仕候事
| 一、当秋生嶋平三郎殿御拝領被成候、御免相色々御理り申候へ共、御検地之上を以、弐つ四分ニ御定
| 被成候、左様ニ御座候へハ、御知行御上被成、又、御蔵納ニ罷成候、其付、御奉行衆ゟ御意之由、
| 御代官衆御申被成、元和七年ノ御免ニ可被成通ニ候、弐つ四分ノ御免ニ而さへ、成不申候、殊ニ
年貢ノ外ニ本種子 | 御年貢之外ニ、本種子夫米、御薪米、去年ノ御加増米、合四拾石余出申候、是程、当御未進出キ
夫米薪米加損米 | 申候、是を被召上候ハヽ、御百姓壱人も堪忍難遂存候、是非共御理り被仰上可被下通、御代官へ
百姓一人モ堪忍ナリ | 申上候へ共、御奉行衆ゟ被仰出候儀、何ニても御理り申上儀不成候と、被仰、庄や孫介・御百姓
ガタシ | 弥右衛門尉・茂左衛門、高未進御座候とて、御糺明被成、めいわく相極候、菩提村悪所故、田畠
定免 | 毛上、年々相替儀無御座候間、定免ニ御定被下、其上御役目等五、三年之間成共、御免被成候は、
| (季)
役目等免除願 | 以来、御百姓も相続可申かと存候、もはや弐拾年余も、年々ニ節記ニハありけなき御糺明斗ニ、
古郷難忘候 | 悪所故相申候間、生在所ニて御座候へ共、村ニもあきはて申候、雖然、古郷ほうしかたなく候て、
| 当年迄ハ堪忍仕候事
| 右申上通、少茂相違無御座候条、御前能様ニ、御披露被成可被下候、仍申上所、状如件
| 元和九年十一月十五日 菩提村百姓
| 源左衛門尉
| 進上 同
| 御奉行衆中 弥右衛門
| 同
| 茂右衛門
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惣奉行等用状案 | 一、来年四月ニ、御土免被 仰付候砌、定免ニ可被 仰付旨、被 仰出候也
忠利裁許 | 元和九年十一月廿七日 西郡形ア少
定免 | 宮部久三郎殿 浅山清右衛門尉
| 佐方少左衛門尉殿 仁保太兵衛
| 横山助進
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読むに堪えない百姓衆の苦労がうかがえる。まさに「生かさず殺さず」の世界であり、まだ成熟していない農政のあり様がうかがえる。