治年公の後継についてはいろいろ問題があったが、宇土支藩の藩主・立禮が宗家に入って遺領を継いだ。
立禮は治年の正室遥臺院(埴)の弟である。二人の男子が幼かったことによる。
立禮は天明八年宗家に入り齊茲と名を改め正式に家督している。
七月廿三日付の次の様な文書がのこされているが、「今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也」とある。
我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々之掟
は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事
「度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19」にあるものだが、この文書によると、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆しているものであり、正式な文書として貴重な史料である。
齊茲の家督の時期、先代治年の三人の男子嫡男年和は九歳、二男應五郎は五歳、三男淨丸はすでにない。
次男應五郎を跡継ぎにするという事は、嫡男年和でないのが不思議だがその理由が良くわからない。應五郎は六歳でなくなり、年和は廿歳で亡くなって居り、次の代は齊茲実子の齊樹へ引き継がれることに成る。
宗家に宇土細川家の血が入り宗家嫡流の血が途絶えた。
+---宗孝==重賢---治年---+==齊茲---齊樹===齊護
| ‖ |
+---重賢 ‖ ---+---年和
| 埴 |
+---清源院 +---應五郎
‖
+---興里
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+---興文--+--------埴(治年室)
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+--------------立禮(齊茲)
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+--------------立之-----+-----立政(齊護)
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+-----行芬