津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■闖入者

2019-07-10 20:28:49 | 細川小倉藩

 今日はすっかり雨の一日になった。明日は所用で出かけねばならないが、こちらも一日雨らしい。
はて、梅雨明けはいつになるのだろう。
昨日も所用で自転車で出かけたのだが、カンカン照りではなかったが、熱中症とは参らぬが少々くたびれてしまった。
そんな中、朝から蝉が騒がしく鳴くのが聞こえたのだが、今年初めて聞くように思える。
処が今日は、部屋の中に「クマゼミ」が入り込んできた。なんだか蝉もお疲れ気味の様・・
壁に止まらせて写真撮影、その後ベランダの観葉植物の上の止まらせたが、飛び立つ気配がない。
今も少々雨が降っているから、そのうちに元気になって飛び立つことだろう。

                                             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■治年の後継

2019-07-10 16:41:16 | 歴史

 治年公の後継についてはいろいろ問題があったが、宇土支藩の藩主・立禮が宗家に入って遺領を継いだ。
立禮は治年の正室遥臺院(埴)の弟である。二人の男子が幼かったことによる。
立禮は天明八年宗家に入り齊茲と名を改め正式に家督している。

七月廿三日付の次の様な文書がのこされているが、「今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也」とある。
    我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
    然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々之掟
    は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事

「度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19」にあるものだが、この文書によると、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆しているものであり、正式な文書として貴重な史料である。
齊茲の家督の時期、先代治年の三人の男子嫡男年和は九歳、二男應五郎は五歳、三男淨丸はすでにない。
次男應五郎を跡継ぎにするという事は、嫡男年和でないのが不思議だがその理由が良くわからない。應五郎は六歳でなくなり、年和は廿歳で亡くなって居り、次の代は齊茲実子の齊樹へ引き継がれることに成る。
宗家に宇土細川家の血が入り宗家嫡流の血が途絶えた。 

   +---宗孝==重賢---治年---+==齊茲---齊樹===齊護
   |         ‖   |
   +---重賢       ‖ ---+---年和
               
   +---清源院         +---應五郎    
       ‖
   +---興里
   |
   +---興文--+--------(治年室)
        |           
        +--------------立禮(齊茲
        |
        +--------------立之-----+-----立政齊護
                   
                    +-----行芬 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■元和九年・覚書(九月廿一日~九月廿九日)

2019-07-10 06:21:39 | 細川小倉藩

         |     
         
|      九月廿一日

         |
なべノ一年分ノ諸 |  (南条元信室、細川興秋女)                           (成政)     (景延) 
入費       | 一、御様御賄方、一年分ノ諸入目積り立、可懸 御目之旨、坂崎清左衛門・宗像清兵衛被申出候也
         |
三斎へ海鼠腸ヲ進 | 一、三斎様へ、このわた持せ被進候歩ノ御小性寺戸二兵衛、申ノ上刻ニ罷帰、 御返書上申候也
ム        |
         |     
         
|      九月廿二日
         |
中津演能ノ猿楽師 | 一、さるがく衆、来ル廿三日ニ、中津へ被遣候間、大橋ニ而振舞可申旨、長庵を以、被 仰出候、肴
等ヲ饗ス     |   遣、宿振舞也
         |
加藤忠広ノ通行ヲ | 一、加藤肥後守殿御とをり候ハヽ、御注進可申上由、井上六右衛門方へ申遣候也
報ゼシム     |
三斎へ参勤ノ家臣 | 一、来ル廿八日ニ、中津へ御見廻之衆、
         |             (長良)               (勝永)
         |    伊藤金左衛門 小笠原宮内少 佐分利兵太夫 寺尾左助 西川與助 谷助太
         |       (重良)
         |    夫 谷忠兵衛 荒木助左衛門 横山藤左衛門
         |   廿九日ニ、中津へ参候衆、 筑紫大膳 筑紫八十郎
         |
         |     
         
|      九月廿三日
         |
         | 一、今月之末ニ、上方ニ小早御上せ可被成旨、被 仰出候事
         |                                    (惟成)
家光へ献上蜜柑ノ | 一、毎年 公方様へ御上被成候ミつかんよく仕可置旨、御郡中へ可申触由、竹原市蔵、被 仰出候
準備       |   間、則、松本彦市・栗野伝介ニ申渡候事
         | 
         | 一、永井安太夫ニ、御米五拾俵被遣 御諚、御使湯浅太郎介
         |
         | 一、西沢文右衛門おいニ、八人扶持被遣旨、被 仰出候、御使右同人
         |            (忠政)
         | 一、江戸へ御飛脚弐人、森美作様へ御飛脚弐人、来ル朔日ニ可被差上旨ニ候、則、乗申御小早の儀も
         |   可申付旨、竹原市蔵を以、被 仰出候事
         |
         |     
         
|      九月廿四日
         |
宇佐郡永荒新地ノ | 一、宇佐郡永荒・新地之御検地之儀、中路加右衛門・松岡久左衛門ニ被仰出候事
検地       |   
目安箱ヲ一郡ニ一 | 一、十一月朔日ニ、目安箱一郡ニ壱つつゝ御出シ可被成旨、被 仰出候事
箇宛配置セシム  |
忠利国廻リノ予定 | 一、十一月中旬比、御国廻可被成候、御郡中之様子可被 聞召届旨、被 仰出候事
         |
櫓米ノ調査    | 一、二番はゑのひつじぢ米、御茶ニ入候間、御郡奉行衆へ相触、調可上之由、八木杢御使にて、被
         |   仰出候事   〃                                    ひつじ米
         |
鏡ヲ磨ガシム   | 一、御かゝミ一面、とがせ候へと、被 仰出、則、岩田甚太郎へ相渡候、御奉り小谷忠二郎にて候事、
         |
筑紫八十郎知行同 |           (筑紫広門)
夢庵合力米ノ懸リ | 一、筑紫八十郎知行所、夢庵へ被遣扶持方御合力米、御積り被成、被遣候事、来年ハ懸り物御蔵納   
物        |   なミニ懸可申 御意事
         |
         |     
         
|      九月廿五日  (記事なし)
         | 
         |     
         
|      九月廿六日  (記事なし)
         |
         |     
         
|      九月廿七日
         |
忠利留守中ノ支出 |  御留守之時   
ハ河喜多正直へ相 | 一、金銀米銭の儀ハ、少にても出シ申儀、河喜多五郎右衛門ニ相談可仕候、御奉公人抱申儀も、五郎
談セシム     |                 (片山)
         |   右衛門と相談仕候て、抱可申旨、示庵を以、被 仰出候事
         |
         |     
         
|      九月廿八日
         |
谷助兵衛ノ待遇  | 一、谷下総殿助兵衛殿へ、御米五拾石・大豆弐拾石可相渡旨、飯田才兵衛を以、被 仰出候、御知行
         |    〃〃〃
         |   をも可被進之候へとも、先当分御不自由ニ可有之候間、被進之由、申可申入候旨ニ候事
         |                                 〃
         |   (嶋津家久)                            (飯田)
嶋津家久飛脚ニ給 | 一、松平薩摩守様ノ御飛脚両人ニ、銀子壱枚宛可相渡旨、才兵衛を以、被 仰出候事
銀        |
         |

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする