二ノ丸にあった家老・米田家の屋敷図を手に入れてから早いもので二年を少々過ぎてしまった。
熊本史談会の会誌の発行も忙しさゆえに、なかなか前に進まない。
そんな中、率先垂範で出稿しようと思って米田邸に関する建築にかかわるものとしての私の推論を小文を書いた。
それが、以下の文章である。諸兄のご批評を仰ぎたい処である。
二ノ丸・米田御屋敷絵図について
熊本地震の直後、2016年10月頃よりインターネットのオークションサイト(ヤフオク)に、細川家家老米田家資料が一年以上にわたり、熊本市内の古物商から出品された。都合2・300点に及んでいるのではないかと思われる。
地震直後、文化財レスキューで助かった史料が多くある一方、ひそかに近世熊本のこのような貴重な資料が流出する現実があった。
後には「佐田文書」と名づけられて出品されるようになり、大方の出どころは推察することが出来たが、地震の被害を受けられたのか詮索しても仕方ないことであった。
公共の美術館・博物館・図書館また大学等に一括納められることが一番望ましいことであろうが、このような緊急な状態で金銭的問題が生じる現実には、差し伸べられる救いの手はなく最悪の経過をたどっていった。
一・二点ずつ落札して入手する中、日を重ねていくとその量が膨大なものになることを実感させられ、唖然とさせられた。まったく地元の人々の目に触れる機会もなく熊本から持ち出される状況である。
流出した資料の事を考えると無力感にさいなまれる。
そしてこれは手をこまねいている訳にはいかぬと考え始めた。
研究者や好事家ばかりではなく、明らかに商売を目的とした入札も見受けられ、現実それらの品物が現在またオークションサイトに顔を見せている。
そういう状況の中で、いささかの抵抗を試み私も入札に参加して勝ったり負けたりしながらも約40点ばかりを落札した。その内容は多岐にわたっている。
2017年7月ころ出品されたこの「米田家御屋敷図」は、自分の職業柄の興味もあって、どうしても落札したいと強く思い入札に参加した。
締め切りはいつもの事ながら23時過ぎである。競り合いが続き、再入札が繰り返されれ、次第に値段は高騰していった。
しかし負けられないという気持ちが勝り、落札に成功したものの、気が付くと日が変わって居り、あまりの高額に及び、あとで呆然としたことであった。
しかし、流出を食い止めたという感慨はそれらの苦労をも凌駕した。
絵図は大小二枚(図1)であり、内容は若干の差違がある。
和紙にタテヨコ7㎜にへらで方眼が施され、それに間取り図が墨書されている。
一部彩色があり、説明のための朱書などもある。
しかしながら敷地の位置関係は書かれておらず、これは残念な事であった。
大きいものは605×465㎜、二枚の和紙を糊付けしてあるが、糊がはがれかかっている。大名並みの15,000石取の御家老の屋敷らしく、中央に能舞台を配した間取りであり、壮大さは藩主の居館・花畑邸をも彷彿とさせるほどである。
小さいものは372×282㎜、一部に糊代を含め123×67㎜の紙が貼られていたが、現在ははがれている。ただし、その位置関係は大きい間取り図により確認でき復元可能である。大小二つの間取り図は夫々の記載内容により補完される部分があり、この二枚を同時に入手できたことはありがたいことであった。
米田邸は種々の絵図面で示される通り、二ノ丸の時習館の北側、百閒石垣上南側に位置していた。二ノ丸御門を入ってすぐ左側に位置している。
敷地の東側は道路(現在の道路ではない)をへだて、細川刑部家の二家が埋門から抜ける道を挟んで位置している。前の道は棒庵坂へ至っている。
大きな図面では確認できない建物の方位に付いては小さな図面で確認できた。
建物の西側は二ノ丸御門前の広場に面しており、三間間口の大きな玄関が設けられていて、その左手には家臣の通用口であろうか一間半間口の脇玄関が別途設けられている。 今一つ南側に時習館に対面するような形で玄関があり、小さな図面には「御成御門」の記載がある。これは間口は二間ほどである。
藩主がお出ましになったときの、専用の玄関であろう。
先述のごとく間取りは能舞台を中心にしており、御成御門はその正面に位置している。能舞台を取り囲むように大きな座敷が配されている。
西の大玄関に繋がっている南西のブロックがいわゆる表だと思われ、入って左手には家臣の執務空間や控えの空間だと思われる部屋が多く連なっている。
玄関正面の大広間は約28帖、その隣南西角は「御鑓の間」と称する部屋で、変則な形をしているが30帖弱ある。その隣に南に面した「御座敷」と名付けられた部屋は梁間4間、桁行7間という桁外れな大きさである。28坪56帖敷である。これがお成御門の左手にあたる。
舞台裏には後述する大きな部屋も「表」の関係としてこれらに連なっている。
御成御門の正面に12帖ほどの部屋が南面して二つあり、これがお成があったときの部屋でもあったろうか。後ろへ抜けると能舞台に面して2間巾の16帖の部屋があり、その前は巾1間の入側となって居り、ここが能を拝見するところであろうか。
しかしこの場所は御能を鑑賞するには下手側となり、必ずしも最適な場所とは思えない。
能舞台の正面にあたる東側の大広間には「御裏座敷」の記載があるが、梁間3間×桁行5間30帖の広さの大広間であり、ここが利用されたとも思われる。
南東の角に当主の居間らしきものがあり、これに二つの大広間が付随していて、「御裏座敷」と繋がっている。
また「御裏座敷」の東奥にいわゆる「奥」と呼ばれる部屋がつながっている。中庭を挟み南に当主の部屋、北側に奥方の部屋とおもわれる座敷があり対面する形に配置されている。
「奥」の北側には「御次」と呼ばれる30帖ほどの大きな部屋があり、さらにその北側には御子たちの部屋ではないかと思われる部屋がいくつか見受けられる。
これ等の空間に続いて台所や風呂と思われるブロックがある。ちょうど能舞台の北側の背中のあたりである。
いわゆる「局」と呼ばれるような空間は見受けられない。
これら主殿から北へ9~10間程の長廊下があり、その奥にいくつかの部屋があり、ここが下働きの女性たちの控え室や作業部屋ではないかと推察している。
これが米田屋敷の概要である。
当然ながら長屋や局等が存在していたと考えられるが、これについての記載はない。
小さい図面の方は、どうやら能興行が催された際に、楽屋を設けるための部屋割りが示されたものらしい。
能舞台の裏手にあたる位置には、「小御座敷・12帖」「御茶の間・24帖」があり、これらが舞台役者の控えに使われているようである。
一部朱書きで書き込みが見られる。
小さな紙片が多数張り付けられていたようだが、糊が外れてどの場所にあったのか確認できない状況があり残念である。
この間取りがどのような形で敷地に配置されていたかは、二つの図面に於いてもまったく窺い知ることは出来ない。大変特徴的なことは、北へ延びる長い廊下であり、大変不思議に思える。西北の角・東北の角には何らかの建物がの存在が伺われた。
このことは、熊本城内絵図で該当する米田家の敷地図を眺めるとよく理解できる。西北の角は二の丸御門の為に、削られていることが判るし、東面には大きく敷地が広がっていることが判る。
米田屋敷は北側、つまり百閒石垣の上には道路が回っていることも確認できるが、あの山東弥源太がお正月の飾りを盗み、百閒石垣を飛び降りたというのは、この道に逃げ込んだという事であろう。案外両側から挟み撃ちにあったのかもしれない。
熊本城絵図に於いては、米田屋敷の敷地形状とその各辺の寸法が記載されている。これに縮尺を併せてこの間取り図を重ねてみると、見事にはまり込んだ。
ただし、建物の寸法は単純に柱間1間=6尺という現在の感覚とは違うことを理解しなければならない。
当時の建築の平面寸法は畳の寸法によっている。つまり、畳の寸法(6×3尺)が定められており、敷き方に応じてその外側に柱を位置させたのである。
武家屋敷の古畳は表替えをして別の部屋に敷きこまれたかもしれないし、又そのまま払い下げられて町中の長屋等に敷きこまれたかもしれない。
究極のリサイクルが成立していた。
その後は柱の芯々寸法をもって1間とするようになったから、現代では畳の寸法は建築現場ごとにまちまちであり、再利用されることないのである。
米田屋敷の南面は東西約22間程あるが、これに柱の大きさが数本分加わることになる。図面を見る限り60~90㎝以上の差が生じているはずである。
そのあたりは大目に見て、作図してみたのが下の配置図である。当然の事ながら建物が敷地境界からどのくらい離れていたかは良くわからない。
しかし概略このようなものではなかったと考えられる。
東北角に広い敷地が広がっているが、ここに長屋やお局が幾部屋も軒を並べていたのではなかろうか。
熊本城内の模型がどのような資料を以て作成されたのか知る由もないが、このような図面が現れたことで、高級武士の武家建築のあり様や、そこで生活する人々の日常さえ彷彿とさせる。
2018年10月2日の熊本日日新聞では、熊本大学図書館に同様の図面が寄贈されたことが報じられた。
これは当方が所蔵している図面の一部(半分?)のように思われる。
こちらには当方所有の絵図にはない「万延元年(11代是豪公代)制作」その他の制作に関する記事の書き込みがあるようだが、写真で見る限りでは同様の間取り図だと考えられる。
私と同じ時期に手に入れられたものと思われるが、寄贈されたそのご厚意には深く敬意を表したい。
私も同様の考えでありこの図面を私蔵(=死蔵)させようとは思っていない。しかるべきところに納めていただき、専門家の手に委ねて研究がなされることを強く願っている。
ただし、また死蔵されてしまっては元も子もないから、どこが一番良いのか思案をしている処である。御示教いただければ幸いである。
熊本地震における熊本城の大被害は目を覆うものであった。
しゃちほこを失った天守の姿や、あちこちの石垣の崩壊、坪井川沿いの長塀の崩落等々、現状を目の当たりにした人々は一様に涙した。
一本足で倒壊を免れたけなげな櫓は全国の人々の目にも焼き付いたであろうし、先人の築城の技術のすばらしさに驚嘆したことであろう。
熊本人にとって熊本城は夫々の人々の心の支えであったことを改めて実感したのである。長い道のりながら、最近では復興の有様が遅々たるものではあるが確実に進んでいることを実感している。
私には完全に復興に及び全体の雄姿を眺めることはかなわないようだ。
米田家御屋敷に関するこの史料が、何らかの形で貢献できればこれにすぎることはないと思うばかりである。