昨日の■エピローグ「清田家系図」には、清田鎮忠が娘・凉泉院の聟として迎えた鎮乗寿閑も紹介した。この人は、豊後竹田岡城主の志賀親次の弟である。
同じく昨日の■元和拾年 萬覚書(50)の四月十六日の記事の中には、「一、鏡善右衛門ニしか殿ヲくりニ参候へ、御船被申付候、大石長右衛門、奉行ニ被申付候事」とある。
頭注には「老女志賀」とある。
ふと思い当たることが有った。細川家家臣に「志賀太郎家(南東51-19)」があるが、祖を「虎左衛門」とし、初代を「少兵衛・親勝」とする。
虎左衛門とは親次の事であるが、ウイキペディアでは「湖左衛門尉(通称)」と記す。「こざえもん」と読めるところは共通している。
私の「新・肥後細川藩侍帳」では、引用元を記していないが、「豊後国岡城主・没後後家(室・大友吉統妹)女子一人、男子一人介抱仕・・・御国菊池郡源川村落忍・・・・加藤家ニ奉公(女之法)」と紹介している。
つまり、親次の没後後家となった奥方は、女子一人・男子一人を連れて肥後国菊池郡源川村に落ち忍び、のちに加藤家に奉公して「女の法」(奥における行儀作法)を教えたという事であろう。
初代・少兵衛についても、「加藤忠広御代新知二百五十石、加藤家改易にあたり浪人、細川家肥後入国時沢村大学方より御連」とあり、二百五十石を拝領している。
加藤家に仕えた志賀親次の奥方が、のちに細川家に入り老女・志賀殿となったのではないかと考えたが、加藤家の改易は寛永九年であり、遡る元和十年(寛永元年)に細川家に居るはずがなく、早合点してしまったようだ。
親次は大友氏の改易にあたりも自らの所領を失った。「その後は、蜂須賀家政に仕え日田郡大井の荘一千石を領有し、関ヶ原の戦いの際には九州で大友義統に石垣原の戦いに支援、のち福島正則、小早川秀秋(九百五十石)、再び福島正則、毛利輝元にそれぞれ仕えた。」(ウイキペディアより)
そして万治3年(1660年)現・宇部市で95歳で(一説93歳)で死去している。
奥方が後家となって加藤家に仕えたという「細川家家臣・志賀氏」にある説明は成り立たなくなる。
大友宗麟の血を引く女性の苦難が見えて痛々しく思える。