津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元和拾年 萬覚書(47)

2019-10-12 10:03:35 | 細川小倉藩

                                (元和十年四月)十一日

         |                  (晴)                         
         |一、十一日 助二郎  甚左衛門〇  当番 清天也
         |                      
筑前ヨリ走来ル者 |一、吉田少右衛門登城ニ而、先度ちくせんゟはしり申候者、町人ニ居申度と申処ニ、下川久左衛門と
ヲ側鉄炮足軽へ返 |                  候由、御申候間
ス        |  申、御そばノ御てつほう衆ノ者ニ而〇其人へかへし申候事
         |  (井門亀右衛門か)                   (香)               (宇佐郡)
四日市ノ籠    |一、かめ右衛門庄屋、此地へ引こし可申候哉と、かう山與介登城にて被申候、四か市ノろうへ御入置
         |     御郡代へ
         |  之由、〇被申渡候事 
         |

                                (元和十年四月)十二日

         |一、十二日 助二郎 甚左衛門〇 当番 清天 道倫煩ニ而不召出候
         | 
鷹師横山某江戸へ |一、江戸へ御使ニ、御鷹師横山九介・御小者一人遣被申候事
使ス       |
三斎中津ニ泰厳寺 |一、小笠原民ア殿登城ニ而、中津御奉行衆ゟノ状持参ニ而、御よミ候、たいかん寺を、中津へ、御立
ヲ建立セントス  |  被成候間、こなたゟ御材木被遣、御立候て、小倉ノ御寺をハ、其まゝ御置被成度と之御ことニ候、
小倉ノ寺ハソノマ |
マ        |   殿様ハ如何被仰出哉と、尋ニ参候、川田八右衛門よび候て、御尋候へ共、しかとハ不承候由、
忠利ノ意見ハ如何 |  被申候事
         |

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            泰厳寺とは織田信長の法号「総見院殿泰巌信齢大居士」を寺号としているように、忠興が信長の供養の為に建てた御寺である。
            小倉にずっとあったものと理解していたが、この奉行所の日録により三齋の隠居地・中津に移されたことを知った。
            忠利の熊本襲封にあたって三齋は八代城に入るが、八代の地にこの泰厳寺も移している。
            信長を討った光秀が舅であったという皮肉は、忠興を大いに悩ませたことは想像に難くないが、三齋の信長を想う気持ちがよく表れている。
            以前ブログで「
忠興の真心を書いたが、その遺構が八代第一中学校のグランドに残されている。

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■三齋付衆二人

2019-10-12 07:06:11 | 花押

                       

 三齋が亡くなる直前の三齋付衆の二人から本藩重役に発せられた書状にある、署名と花押である。

            ■佐方与左衛門
                         与左衛門・友信(庄左衛門・弟)【田辺城籠城】
          佐方庄左衛門弟也、今度の働二付而、忠興君に被召出、御知行弐百石被下候、大阪
          陳之時鑓を合、組討の高名有、為御褒美、御加増五百石被下、其後三百石被下、都合
          千石ニ被仰付候、中務殿江被成御附、宇土にて病死   (綿考輯録・巻五)

          (大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
          知行五百石御加増・本知弐百石
 御馬栗毛四半差物御免
              鑓を合、組討ニ首一討取 右之眉疵一ヶ所被る   (綿考輯録・巻十九)

              (1)三斎様御付中津ニ相詰候衆 七百石 丹後  (於豊前小倉御侍帳)
              (2)千石 (八代分領侍帳・正保二年十二月)
               
                   ご子孫:元郵政政務次官、佐方信博氏(富士重工業(株)副社長)
            著作に佐方家について述べられた自家版「つづら文から」がある。

    ■長岡河内守(村上縫殿介・景則)
         中津・八代を通して三齋に近侍した。10,000石。
         生前の三齋の意向に沿い行動し、本藩と軋轢をうみ、のち離国した。

         当ブログ■村上景広と景則を参照されたし。

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