(元和十年四月)十一日
| (晴)
|一、十一日 助二郎 甚左衛門〇 当番 清天也
| 参
筑前ヨリ走来ル者 |一、吉田少右衛門登城ニ而、先度ちくせんゟはしり申候者、町人ニ居申度と申処ニ、下川久左衛門と
ヲ側鉄炮足軽へ返 | 候由、御申候間
ス | 申、御そばノ御てつほう衆ノ者ニ而〇其人へかへし申候事
| (井門亀右衛門か) (香) (宇佐郡)
四日市ノ籠 |一、かめ右衛門庄屋、此地へ引こし可申候哉と、かう山與介登城にて被申候、四か市ノろうへ御入置
| 御郡代へ
| 之由、〇被申渡候事
|
(元和十年四月)十二日
|一、十二日 助二郎 甚左衛門〇 当番 清天 道倫煩ニ而不召出候
|
鷹師横山某江戸へ |一、江戸へ御使ニ、御鷹師横山九介・御小者一人遣被申候事
使ス |
三斎中津ニ泰厳寺 |一、小笠原民ア殿登城ニ而、中津御奉行衆ゟノ状持参ニ而、御よミ候、たいかん寺を、中津へ、御立
ヲ建立セントス | 被成候間、こなたゟ御材木被遣、御立候て、小倉ノ御寺をハ、其まゝ御置被成度と之御ことニ候、
小倉ノ寺ハソノマ |
マ | 殿様ハ如何被仰出哉と、尋ニ参候、川田八右衛門よび候て、御尋候へ共、しかとハ不承候由、
忠利ノ意見ハ如何 | 被申候事
|
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
泰厳寺とは織田信長の法号「総見院殿泰巌信齢大居士」を寺号としているように、忠興が信長の供養の為に建てた御寺である。
小倉にずっとあったものと理解していたが、この奉行所の日録により三齋の隠居地・中津に移されたことを知った。
忠利の熊本襲封にあたって三齋は八代城に入るが、八代の地にこの泰厳寺も移している。
信長を討った光秀が舅であったという皮肉は、忠興を大いに悩ませたことは想像に難くないが、三齋の信長を想う気持ちがよく表れている。
以前ブログで「忠興の真心」を書いたが、その遺構が八代第一中学校のグランドに残されている。