津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元和拾年 萬覚書(61)

2019-10-31 15:52:24 | 細川小倉藩

                          (元和十年四月)廿八日

         |                                           
         |一、廿八日   甚左衛門 道倫  当番  晴天
         |

         |          (左)
左官天守ノ辰口壁 |一、川田八右衛門・御佐官内田平蔵登城候而、御天守ノ辰口ぬり申ニ付而、玉子しまい仕候、玉子御

塗用ニ玉子ヲ求ム |  郡へ被仰付可被下由ノ事
鷹師江戸ヘノ使ニ |一、御鷹師冨田彦右衛門登城候而、江戸へ御使ニ可遣由、被仰付候へ共、眼気相煩申候条、養生仕度
眼病故養生ヲ乞ウ |  存候、其御心得被成可被下由、申候へバ、両人之御奉行衆飯後被上候哉、談合可申由、横山進助
         |  被申候事
         |                        (吉弘統幸)
豊後ノ陣ノ戦死者 |一、宇野七右衛門登城ニ而被申候、 殿様御れう分ニ、吉ひろ加兵衛、ふん後ぢんノ時打じに仕候、
ノ弔所建立ヲ願ウ |  其御とぶらい所を、子共とも立申度由申候か、いかゝ御座候哉、御奉行衆へうかゞい被申候、く
         |  るしかるま敷由ニ候事
         |
         |      (河井)                      (富田)     被              申候
江戸ヘノ使ノ鷹師 |一、御鷹師権丞へ被申渡候、彦右衛門眼気煩申候ニ付、よ人へ差替候様ニと左候へゝ、せいし被仕候

ヲ差替ウ 病気故 |                              〃〃〃〃  
ノ誓紙ヲ書カシム |  やうニと被申渡候事、心得申候由ニ候、大野弥兵衛と申御鷹師被参候事
子供ノ礫打ノ禁制 |一、佐分利作左衛門登城ニ而、主前ニ而、子供ともつぶてうち仕候間、高札御立候て可被下候由、被
願        |  申候事
台所人眼気ニツキ |一、御台所新蔵眼気相煩申候ニ付、御上洛前ニ、深野左介を以替え、御いとま申上候、然は、女子召
暇願       |  連、在所へ罷帰候間、御川口御切手被下候様ニと申候、其時、御奉行衆へ左介何共不被申候間、
         |          (有之)                    存たる由、
         |  如何候哉、せうこ人■■は、可遣由、被申候、則、吉田喜雲、書を可仕候ニ付、さし帋被遣候事
         |

 

                          (元和十年四月)廿九日

         |                                           
         |一、廿句日   道倫  助二郎    当番 
         |           帳
下毛郡麦帳    |一、下毛郡御奉行衆ゟ麦参候事
         |    (田代等甫)   (風脱)
絵師等甫ニ金屏風 |一、中津ノ等浦ニ、金屏弐双被 仰付候、御奉行を遣可然、不入儀かと、矢野少右衛門ニ被相尋候、
二双ヲ命ズ    |                    (箔)
制作奉行ノ要   |  小右衛門申候ハ、御奉行不仰付候ハヽ、薄之積り・日手間ノつもりしれ申間敷候条、御奉行被仰
箔日手間ノ積リ  |                                    (沢村吉重)
         |  付可然之由申候事、又、沢大学殿ゟへ、只今以使、被尋候ヘハ、等甫かたへ飛脚を被遣、御たつ

         |                 〃
三斎召船ノ船幕  |  ね可然候よし候、御奉行衆被申候ハ、中津御舟まくの儀を、御船頭衆ゟ■中津御船頭衆へたつね
         |  ニ遣候ヘハ、其まゝ 三斎様立 御耳候間、等甫儀も、中津御奉行衆ニへ可申入との返事不申候
         |  事                              〃
         |             (奈良鍛冶)
奈良鍛冶口入銀  |一、林太郎左衛門登城ニ而、ならかち左兵衛ニ口入銀仕候、然は、銀切手出次第ニ、切手ニ而取立候
切手ニテノ取立ハ |  へとの約束仕置候、然は共、切手ニ而ヲさへ申儀、御法度之由承及候、如何可被仰付哉と、相尋
法度       |            〃
奉行所関与セザル |  候へバ、借銀之儀、御奉行所ニ而取沙汰無之儀ニ候条、あいたい次第たるへき由、被仰申渡候事
故ニ相対タルベシ |                                        〃
石垣ニ石ヲ支ウ  |一、勘平・與介登城候而、所々石垣かい石不死候は、崩可申所御座候条、かい石可申付由、うかゞい
         |  候ヘハ、仕候而可然由、被申渡候事
金山へ秤天秤針口 |一、金山へはかり五ケ、天秤之針口被遣候事
幕府蔵入由布院横 |一、由布院・横灘ノ目録仕立ニ、御惣庄や・御郡代宇野七右衛門登城仕候事
灘ノ目録仕立ニ惣 |
庄屋郡奉行等登城 |

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■平川さんの思い込み

2019-10-31 06:18:19 | 自分史

 昨日は借りていた本の返却日となったので図書館行き、特段プリントの予定もなくいろいろな資料を眺めていた。
我家と先祖を同じくする平川家の「平川文書」が気になって目次を眺めていると、古文書類とは別に平成10年に書かれた、ご子孫の一文の冊子が添付されていた。
「平川家文書」は貴重品扱いとなっているから、その閲覧にあたっては手を洗うことを求められる。
平成10年の冊子だが、同じ袋に収められているため同様の扱いだそうな・・

読んでいるとどうも違和感を感じる。新たに書き起こされた、共通の祖「磯部氏」から繋がる系図が間違っていることにも気づいた。
この間違った系図(下の写真)もさることながら、かなりの思い込みがあって若干わき道にそれた部分が見て取れる。
わずかな間違いも見て取れる。筆者に連絡を取りたいところだが、「個人情報」がネックとなっていて、教えてもらえない。
間違った思い込みが修正されることは望めない。


            

                            

              この図によると八人兄弟(妹)の二男庄左衛門の子太兵衛が平川姓を名乗ったとされるが、これが間違いである。
          兄弟は長五郎と庄左衛門の二人であり、庄左衛門に六人の子が有り、嫡男市右衛門の子が平川太兵衛である。
          我が家は庄左衛門を初代とし、次男である二代目・又之允が母方の姓を名乗って今日に至っている。
          (実は当家の二代目は太左衛門を名乗っている。ここでは又之允としているが初名か?)

          筆者は何故磯部家の嫡流が平川姓を名乗ったか、不思議に思って居られるようだが、母親の家の姓を名乗ったので
          はない
かと推理されているが、当家の資料からすると考えられない。
          父・庄左衛門は病気がちで熊本入りするとき生国へ帰国したい旨を兄・長五郎から申し
出ているが、三齋公は八代
          へ来て養生することを進めている。


          いろいろ推理を働かせて先祖を想うことは結構な事だが、それが思い込みとなってしまうことは大変危険である。
         

         

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