最上騒動の一方の主役楯岡光直についていろいろ調べる中で、国立国会図書館のアーカイブス「楯岡甲斐守光直と其の子孫」の存在は大変ありがたかった。
光直が小倉に於いて死去する中で、細川家は熊本に転封、光直の嫡子・孫市郎は細川家に随伴して熊本入りしている。
そして1,000石を拝領するとともに座班に於いても七人着座の四番目に召しおかれるなど厚遇されていく。
孫一郎の子が最上一族の山野辺氏の養子に入ったことは承知していたが、名前が判らずにいた。水戸徳川家の家老となった山野辺家である。
上記アーカイブスで忠清という名前が確認されるとともに、孫一郎の嫡男であることも判明、熊本の楯岡家は二男が跡継ぎしていた。
冊子自体はもう入手は不可能であろうが、こうして簡単に確認できることに大いに感謝である。
プリントアウトして冊子仕立てにしようと思っている。
(元和十年四月)十七日
|
|一、十七日 道倫〇 甚左衛門〇 当番 雨
| (泰厳寺)
泰厳寺ノ破損ハ三 |一、川田八右衛門登城ニ而、中津ゟ、坂崎加兵衛此地へ被参候、大かん寺そこね申候由、 三斎様御
斎ノ知ル所 | (景広) (長元)
入費ハ構ハズ | 見々に立申候て、村上八郎左衛門・小笠原民ア殿御頼被成候間、いかほと御ざうさノ参候儀ハく
| るしからす候間、御繕被成候由、被仰越候事、 (沼田延元) (主膳、衛則カ)
人返シ解決セズ |一、山田次右衛門、中津ゟ状ヲこし申候、人かへしノらち明不申候、長岡勘解由殿・谷しゆぜん殿、
| (上毛郡)
盗人 | 両人之者ノ儀ニ付、ぎんミ御座候、又、八屋村ノ御百性、 三斎様御れう分へぬす人に入、ぬの
| こ取、中津ノ町ニ、しちニをき申候ヲ、見合申候由申候、志水次兵衛ニ申候由承候、次右衛門ニ
| ハかへし申候由、見へ申候由、申来候事
鉄炮試射ノ奉行横 |一、小崎與次兵衛ニ御申付候、御てつほうためし申候御奉行御申付候、御横目一人被仰付候て、可被
目任命 | 下由ニ候事
|
上毛郡奉行報告 |一、吉田も左衛門・岩崎太郎兵衛登城候而、中津御蔵納上毛郡河原田村妙心・弥市・弥十郎と申御百
盗人盗品ヲ入質 | 性之家へ、四月四日之夜ぬす人入、種々物ヲ取出、しれ不申候処ニ、中津博多町町人所ニ、ぬの
| こ三つ、しちニ置申候、其札ニ、八屋村三七郎と書付候ヲ見、しれ申候由、中津蒲田久左衛門、
| 志水次兵衛へ書物上ケ候ニ付而、右之郡奉行被付候ヲ、御奉行所へ持参仕、被申候ハ、彼三七郎
妻弟ヲ■置ク | ハ日田へ商ニ参候、其女房・弟両人候ヲ■置候由、被申候事 ■扌偏に乄=締
| ( 乞食 ) (嘉麻) (上毛郡)
鉢ひらき坊主筑前 |一、きうしんと申はちひらき坊主、筑前へこつしきに参候へバ、かま郡の内ゟ八屋村ニむすめ両人御
へ乞食ニ行クニ母 | 座候母、其むすめニこ袋壱つ言伝候ヲ、持届候へバ、八屋庄やハ留守ニ而、其女才覚ニ以而、彼
ヨリ娘へ言伝サル | 如此之由、 御奉行衆
庄屋女房坊主ヲ捕 | きうしんヲとらへ、小倉へ引出候、右両人之御郡奉行〇被申候ヘハ、然は民ア少輔殿へ被参、右
へ小倉へ引出ス | 之子細被申上候へと、被申渡候事
| (小笠原長元)(米田是門) (矢野)
|一、右之きうしん、民ア殿・與右衛門・利斎登城候而、惣談之上、こつじきニ而、言伝物持参仕、各
| (山内) (ママ)
乞食坊主ハ国払 | 別無之ニ相極、惣庄や大進、御郡吉田茂左衛門・岩崎太郎兵衛ニ被仰聞、御国中ヲ被払候事
|一、古市村與三左衛門儀、重而惣談可有由ニ而、延候事
新銭諸人迷惑ニツ |一、新銭之儀、人々迷惑仕候由ニ候条、可得奉御諚ニ相究候事
キ御ヲ得ム |
筑前ノ紺屋走来ル |一、筑前ゟこんや壱人走来候、民ア殿・奉行衆判形ニ而、御籠被申付候事
シ小人入牢 | 明石源右衛門
抜刀ノ百姓ヲ逮ウ |一、沼山ニ而、刀ぬき百性とらへ来候者■■小頭網田左兵衛預り可申由、申上ニ付而、右之衆と御惣
| 談ニ而、預ケられ候事
|