我が家の遠祖磯部氏は毛利家の家臣であった。1,500石を頂戴していたが牢人して下松に牢居した。毛利家の領地が縮小されたことによる。
元和九年の「福岡県史・近世史料 小倉細川藩」の「壬(閏)八月七日」の項に次の様にあるが、細川家の公式資料にみえる我が家にかかわる最初の記事である。
知行高弐百石
一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、しれ申候事
先祖附によると、忠興公が「江戸上下被成候時分・・」船旅の休憩のために下松に舟を止められた折々、接待申し上げたことがご縁となり、後に長五郎兄弟が豊前に召し出されることになった。
その肝煎をしたのが清田石見と云庵(槇嶋雲庵)だと記されている。
清田石見女・幾知が忠興の側室となり、宇土細川家祖・立孝、刑部家祖・興孝の生母となった。
そんなことから清田家の歴史に大いなる興味を持ち、いろいろ触れてきた。その都度私なりに系図をまとめたりしてご紹介して来た。
「五郎大夫家」の現当主興泰氏とはまさにそのブログ記事をきっかけとして、ご厚誼を頂くようになった。
最新版は8月4日の ■清田家系図に対するご指摘 である。
また当ブログをご覧になって「花久留守‐宮本次人キリシタン史研究ブログ」の宮本次人氏から、いろいろなご指摘を頂いてのものであり大変ありがたかった。
一昨日、熊本市南区富合町釈迦堂の清田邸で催された会合に出席した際、再販された「大友の末葉・清田一族」を購入してきた。
ここに清田氏がまとめられた系図が掲載されている。
実はこの系図については8月下旬に興泰氏からお手紙を頂戴して、同様の系図が送られてきており、その根拠を示されている。
このような結果が導かれたのは、清田家関係者の皆さんが多くの資料を読み解かれての集大成である。
*邦文資料
1、「寿閑の母は大友宗麟の娘・・」 (『綿考輯録』巻二四 289頁)
2、「寿閑の兄は清田五郎大夫・・」 ( 同上 288頁)
3、「寿閑の妻は凉泉院で清田七助の母・・」 (『肥後切支丹史』下巻 409頁)
4、「清田五郎太夫は掃部(鎮忠)の二男・・」(『先祖附』 永青文庫蔵)
*欧文資料
5、「国主は娘の一人を領国の清田殿という国衆に嫁がせており、二歳ぐらいの女の
子がいた。親たちはその子を非常に愛していたが病気になり、我等主なるデウ
スはその子が死ぬることを許し給うた」 (『一六~一七世紀イエスズ会日本報告集』1587年、ルイスフロイス書簡)
6、「継嗣なる少女・・」と、また「清田殿の長女」と書簡に記される子は同一人物と思料される。
(『前掲書』1580年、ロレンソ・メシヤ書簡)
7、「彼等(鎮忠とジュスタ)には男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次=竹田・岡城主)の兄弟である
ドン・ペドロ(志賀浄閑、後の清田寿閑)を養子にした」
(『前掲書』1586年、ペロ・ゴーメス書簡)
そこで右の資料を整理すると、1と7から寿閑の母は志賀家に嫁した宗麟の娘だったことが知られる。
因みに宗麟には五人(六人とも)の女子があり、清田鎮忠・久我三休・志賀親度・奈多鑑元・臼杵統尚・小早川秀包にそれぞれ嫁している。
次に、2と6、そして7から寿閑の妻凉泉院は五郎太夫の妹と理解される。つまり6の継嗣なる少女(清田殿の長女)は、後に7の
寿閑を婿に迎える訳だが、2で寿閑の兄は五郎太夫と記せるからには、凉泉院は五郎太夫の妹と云うことになろう。
ところで、当の凉泉院だがジュスタと鎮忠の子とする史家もいる。その根拠は両人の再婚時期を1575頃とし、凉泉院の生年を
1578~9年としている。何故なら1578年に二歳の子(姉)が亡くなっているからである。
しかし凉泉院は夫寿閑との間に1589年、長男七助(後の石見鎮乗)を生んでおり、彼女の生年を1578~9年とするのは母子の
年齢差からみて当らない。つまり凉泉院の生年はそれ以前でなければならない。また凉泉院をジュスタの連れ子マダレイナとす
る説もあるが、これとて周辺証拠に矛盾があり成立しえない。
次に1578年二歳で亡くなる女子の両親についても諸説ある。例えば彼女は親たちから非常に愛されていたことを理由にジュス
タと鎮忠の子とする説。またジュスタと前夫一条兼定とする説。更には鎮忠の前妻の子とする説である。そしてこれらの節の根
拠は主に欧文史料に負うものであって、符号(ママ)する邦文史料は未だ見ない。ところが臼杵市の芝尾に次のような石祠がある。
碑文には天正六年(1587)、泰政公(兼定)の姫君霊とある。つまりこの姫君こそ二歳で亡くなった女の子ではなかろうか。
さすれば、彼女の両親は明白である。以上をふまえ、ドン・ペドロこと鎮乗寿閑と清田宗家の関係は次のように示すことができよう。
+------鎮隅
一色殿娘 |
‖---------+------五郎大夫
‖ |
‖ +------凉泉院
清田鎮忠 ‖---------+-----七助(石見)
‖ 再婚 鎮乗寿閑 |
ジュスタ (志賀家より養子 +------吉(幾知)
‖ ‖--------+------立孝
‖ 細川忠興 |
‖ +------興孝
‖---------+------マグレィナ 1927殉教 後列福
‖ |
一条兼定 +------少女二歳亡 (註・欧文史料5を根拠に鎮忠の子とする説あるも、石祠の兼定説を信じたい)
ここまでの成果を上げられたことに敬意を表したい。100%の答えが確定したわけだが、新出の史料でもない限りこれ以上の結果は導かれないかもしれない。
私はこれをもってエピローグとしたい。