津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■病院行き

2019-10-16 16:28:09 | 徒然

 血圧と血糖の薬が切れた。朝から病院行きである。いつも30日分の薬をもらうために、定期的に診察を受けたり、血液や尿の検査を受ける。
処が今回は40日ぶりである。計算が合わないのは薬の飲み忘れがあるからだろう。10日も忘れたことはないと思うのだが・・・
さて前回の検査結果、「γ-GT」値が71と高くなり酒を控えるようにとのご託宣である。血糖値は116、LDLコレステロール値が188と相変わらず高い。
最近体重も増えて摂生しているのだが・・・。
クレアチン1.18と高いとの指摘だがどういうこと?腎臓が痛んでいるの?

血圧は薬のお陰で安定はしているものの「上が高い」、時折150を超える数字が出るが、昔の180超えからすると私的にはまずまずの状態との理解である。
心臓も少々具合が悪いそうだし、小脳が小さくなっているとかで道を歩くのにふらつくのはそのせいだという。
それでもしっかり運動をするように、お酒、甘い物、塩気、炭水化物を控えるようにとのご託宣である。

又、先日の会合に出かけた折、二時間ほど和室に座った。
あぐらを組んだり、時には足を投げ出したりまでしたのだが、以来左の股関節が痛くて仕方がない。

それでもめげずに散歩に出たり、図書館までくたびれ自転車で出たりしているのだが、自転車同様足回りもがたがたである。
PCをたたくのに、椅子の高さをいろいろ工夫しているが、時折股関節が悲鳴をあげ、余りの痛さにギャッと声を上げて立ち上がって奥方を驚かせている。

内科的にも外科的にも身体がたがたになり、いろんなことが思い出せなくなり、本格的爺になったな~と痛感する。
メールの返事を忘れ、手紙を出すのを忘れ、図書館へ出かけては資料のコピーを忘れ・・・いかんですばい。

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■元和拾年 萬覚書(50)

2019-10-16 12:44:25 | 細川小倉藩

                        (元和十年四月)十六日

         |                                           
         |一、十六日 甚左衛門 道倫  当番  半晴
         |
火事場ノ盗賊ノ詮 |一、高野徳右衛門よひニ遣、被仰置候、町中火事之時、物取入候間、其物取をあらため候様ニと、被
索        |           (是門)
         |  仰■付候、就其、米田與右衛門ニ委被 仰置候間、参候而、可相尋由之事
         |              参候
老女志賀     |一、鏡善右衛門ニしか殿ヲくりニ参候へ、御船被申付候、大石長右衛門、奉行ニ被申付候事
         |              〃〃〃〃 〃
         |
走リシ小者ノ請人 |一、御小者頭登城ニ而申候、京吉田ニ而、御小者一人はしり申候、請人遠坂越後殿ニ居申候間、相届
ヲ入牢セシム   |  可申由申候事、可然候之由ニ候事、則、請取、ろうへ入申候
         |       〃
         |  (黒崎)      (西村)
筑前ヨリノ走人紺 |一、くろさき口御番善兵衛登城、ちくぜんゟ一人走り参候、こんや仕度由申候、則、町御奉行へ相
屋業ヲ望ム    |  渡候事
小笠原長元知行所 |一、矢野利斎登城ニ而、民ア殿知行たね米ノ儀、談合ニ而、御郡■御奉行木村九郎■衛もくろく、
ノ種子米     |  利斎へ被相渡候事                         
金山諸奉行小屋修 |一、沢路吉右衛門登城ニ而、御金山はかり急出来仕候様ニ、諸奉行小屋立なし申候間、ふしんノ者被
築願       |  遣候やうニとの事ニ候
入牢ノ判ノ決裁  |一、神西長五郎を以、京ゟ御小人走申ニ付而、其請人ヲ籠者可申付候間、籠へノ判形被成候へと、被
         |  申越候へバ、此中成敗者も、穿鑿之事も、此方へ不被申届候条、判形仕間敷由御申候、重而、米
         |   (是友)             右ノ子細ヲ
         |  田甚左衛門・神西長五郎を以、被申越候事                (米田是門)
新銭ノ談合    |一、松屋道二登城、新銭ノ儀、何も先日御談合之如ク可被仰付哉と、被申候へバ、米與右衛門殿へ、
         |  八つうち候而後出、談合可有由之事
         |
         |     (ママ)
田川郡奉行免相成 |一、田川御郡林與兵衛・臼杵半左衛門登城ニ而、田川免相之儀成難候、七年免之如ク仕、去年之御加
リ難キヲ申ス   |  損米、彼是ヲ取置候而入れ候而、御取立可難成候、惣而、私等両人ニ而ハ可難成候間、可成と申
         |        〃〃〃〃
         |  仁ヲ被仰付候は、其人ニ随ヒ、催促可申由之事
         |
          

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■エピローグ「清田家系図」

2019-10-16 08:20:15 | 人物

 我が家の遠祖磯部氏は毛利家の家臣であった。1,500石を頂戴していたが牢人して下松に牢居した。毛利家の領地が縮小されたことによる。
元和九年の「福岡県史・近世史料 小倉細川藩」の「壬(閏)八月七日」の項に次の様にあるが、細川家の公式資料にみえる我が家にかかわる最初の記事である。

     知行高弐百石
   一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、しれ申候事

先祖附によると、忠興公が「江戸上下被成候時分・・」船旅の休憩のために下松に舟を止められた折々、接待申し上げたことがご縁となり、後に長五郎兄弟が豊前に召し出されることになった。
その肝煎をしたのが清田石見と云庵(槇嶋雲庵)だと記されている。
清田石見女・幾知が忠興の側室となり、宇土細川家祖・立孝、刑部家祖・興孝の生母となった。
そんなことから清田家の歴史に大いなる興味を持ち、いろいろ触れてきた。その都度私なりに系図をまとめたりしてご紹介して来た。
「五郎大夫家」の現当主興泰氏とはまさにそのブログ記事をきっかけとして、ご厚誼を頂くようになった。

最新版は8月4日の ■清田家系図に対するご指摘 である。
また当ブログをご覧になって「花久留守‐宮本次人キリシタン史研究ブログ」の宮本次人氏から、いろいろなご指摘を頂いてのものであり大変ありがたかった。

一昨日、熊本市南区富合町釈迦堂の清田邸で催された会合に出席した際、再販された「大友の末葉・清田一族」を購入してきた。
ここに清田氏がまとめられた系図が掲載されている。
実はこの系図については8月下旬に興泰氏からお手紙を頂戴して、同様の系図が送られてきており、その根拠を示されている。
このような結果が導かれたのは、清田家関係者の皆さんが多くの資料を読み解かれての集大成である。


     *邦文資料
       1、「寿閑の母は大友宗麟の娘・・」     (『綿考輯録』巻二四 289頁)
       2、「寿閑の兄は清田五郎大夫・・」     (    同上    288頁)
       3、「寿閑の妻は凉泉院で清田七助の母・・」 (『肥後切支丹史』下巻 409頁)
       4、「清田五郎太夫は掃部(鎮忠)の二男・・」(『先祖附』 永青文庫蔵)
     *欧文資料
       5、「国主は娘の一人を領国の清田殿という国衆に嫁がせており、二歳ぐらいの女の
          子がいた。親たちはその子を非常に愛していたが病気になり、我等主なるデウ
          スはその子が死ぬることを許し給うた」 (『一六~一七世紀イエスズ会日本報告集』1587年、ルイスフロイス書簡)
       6、「継嗣なる少女・・」と、また「清田殿の長女」と書簡に記される子は同一人物と思料される。
                             (『前掲書』1580年、ロレンソ・メシヤ書簡)
       7、「彼等(鎮忠とジュスタ)には男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次=竹田・岡城主)の兄弟である
          ドン・ペドロ(志賀浄閑、後の清田寿閑)を養子にした」
                             (『前掲書』1586年、ペロ・ゴーメス書簡)
      そこで右の資料を整理すると、1と7から寿閑の母は志賀家に嫁した宗麟の娘だったことが知られる。
     因みに宗麟には五人(六人とも)の女子があり、清田鎮忠・久我三休・志賀親度・奈多鑑元・臼杵統尚・小早川秀包にそれぞれ嫁している。
      次に、2と6、そして7から寿閑の妻凉泉院は五郎太夫の妹と理解される。つまり6の継嗣なる少女(清田殿の長女)は、後に7の
     寿閑を婿に迎える訳だが、2で寿閑の兄は五郎太夫と記せるからには、凉泉院は五郎太夫の妹と云うことになろう。
      ところで、当の凉泉院だがジュスタと鎮忠の子とする史家もいる。その根拠は両人の再婚時期を1575頃とし、凉泉院の生年を
     1578~9年としている。何故なら1578年に二歳の子(姉)が亡くなっているからである。
      しかし凉泉院は夫寿閑との間に1589年、長男七助(後の石見鎮乗)を生んでおり、彼女の生年を1578~9年とするのは母子の
     年齢差からみて当らない。つまり凉泉院の生年はそれ以前でなければならない。また凉泉院をジュスタの連れ子マダレイナとす
     る説もあるが、これとて周辺証拠に矛盾があり成立しえない。
      次に1578年二歳で亡くなる女子の両親についても諸説ある。例えば彼女は親たちから非常に愛されていたことを理由にジュス
     タと鎮忠の子とする説。またジュスタと前夫一条兼定とする説。更には鎮忠の前妻の子とする説である。そしてこれらの節の根
     拠は主に欧文史料に負うものであって、符号(ママ)する邦文史料は未だ見ない。ところが臼杵市の芝尾に次のような石祠がある。
      碑文には天正六年(1587)、泰政公(兼定)の姫君霊とある。つまりこの姫君こそ二歳で亡くなった女の子ではなかろうか。
     さすれば、彼女の両親は明白である。以上をふまえ、ドン・ペドロこと鎮乗寿閑と清田宗家の関係は次のように示すことができよう。                                                     

           
        +------鎮隅
 一色殿娘   |
   ‖---------+------五郎大夫
   ‖      |
   ‖    +------凉泉院
 清田鎮忠       ‖---------+-----七助(石見)
   ‖ 再婚     鎮乗寿閑  |
 ジュスタ     (志賀家より養子  +------吉(幾知)
   ‖                     ‖--------+------立孝
   ‖                細川忠興   |
   ‖                       +------興孝
   ‖---------+------マグレィナ 1927殉教 後列福
   ‖      |
   一条兼定   +------少女二歳亡 (註・欧文史料5を根拠に鎮忠の子とする説あるも、石祠の兼定説を信じたい)

 ここまでの成果を上げられたことに敬意を表したい。100%の答えが確定したわけだが、新出の史料でもない限りこれ以上の結果は導かれないかもしれない。
私はこれをもってエピローグとしたい。

コメント (2)
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