一叢のコスモス 尾上に秋を居り 津々
私が住む熊本市東区のかっては、その大半が健軍町で占められていた。
景行天皇の時代(弥生時代)が創建だとされる健軍神社のお膝元であり、健軍町は東区の6~7割ほどを占めていたのではなかろうか。
1970年代から住居表示が進められる中で、新たな町名がつけられていく。それは2007年まで続き現在の住居表示となっている。
結果として27の新しい街が出現し、それが既存の街と融合して、熊本5区の内では最も人口の多い地区となっている。
私の住む「尾上4丁目」の成立は最終番であったようだ。新しい街だから地名辞典などをみても、その由来を知ることが出来ない。
中にある「三郎」とか「灰塚」とかは、この地域を納めた、健軍城の阿蘇三郎に由来していたり、また戦場となったりした名残だと思われる。
ならば「尾上」の由来はどうか・・・全体がそうではないが、東の方は小高い丘陵地が「新外」や「山の神」の方へと続いている。
そんなところから来たものと考えている。
朝の散歩で、未だ入ったことのない道を進むと思いがけず丘陵地の尾上にでた。コスモスが秋の風にゆれている。
山は健軍飛行場(現・日赤病院や県立大学)から三菱工場(現・西部方面総監部など)を結ぶために、切通として道が開かれた。
これにマンションや住宅其の他が立ち並んでいるから、かっての山容を窺い知ることは出来ない。
広大な広がりを見せる旧・健軍町全てを眺めることは出来ないが、この地が戦いの場所であったことを想うと感慨深いものがある。