〇鷹之御間申渡之式‐(ニ)
一御在国者追而其身々々之御禮被為請候 御在府は御礼状請便之節差上候之事
御在国の者は追って其身々々の御禮を請なさる事 御在府の者は御礼状を請便の節差上げる事
但右者
太守様 御隠居様 若殿様共ニ士席以上無差別差上之事
但右は
太守様 御隠居様 若殿様共に士席以上差別なく差上る事
一御禮状仕出後レ付而身分伺有之節ハ差控二不及旨及達御禮状ハ此節差上候様及差図其趣達尊聴御小姓頭江茂知せ候事
御禮状仕出後れに付て、身分伺が有る節は差控には及ばぬ旨達に及び、御禮状は此節差上ること差図の及び、其趣は尊聴に達し御小姓頭へも知る事
一御留守居・御中小姓之席以上之人ハ総而鷹之御間ニおゐて御用番より申渡候得共士席之内ニ茂阿蘇組已下ハ於御奉行所
御奉行申渡尤阿蘇組以下之内ニも御留守居御知行取者鷹之御間ニ而御用番より申渡之右御間所取分之訳相分兼以前より
之仕来ニ候事
御留守居・御中小姓の席以上の人は、総じて鷹の御間におゐて御用番より申渡され共、士席の内にも阿蘇組以下は御奉行所に於いて御奉行が申渡す
尤も阿蘇組以下の内にも御留守居御知行取は鷹の御間にて御用番(月番家老)より申渡し、右御間所取分の訳は分り兼ね、以前よりの仕来りである
事
但御小姓組仰付候節ハ紙面沙汰之事
但御小姓組仰付の時は紙面にて沙汰の事
一神護寺・往生院も右之御間ニおゐて分職御奉行同道申渡候事
神護寺・往生院も右の御間におゐて分職御奉行が同道し申渡さる事
寛政六年十月
御用有之御花畑へ被為召候人病中ニ而難罷出節ハ以来名代之人頭と可致同道候尤名代之人名前は前以御奉行迄可被
相達候事
寛政六年十月
御用が有り御花畑へ召なされる人で、病中にて罷り出がたい節は、以来名代の人頭と同道いたすこと、尤名代の人名前は前以って御奉行迄相達
されるべき事
一病死跡并御奉公御断奉願置候者之嫡子養子又ハ名跡相続之二男末子嫡孫等御花畑江被為召候節ハ名代ニてハ難相済候
尤病気之様子ニ応候而ハ吟味之上臨時ニ及差図儀も可有之候
病死跡并は御奉公御断りの願置をたてまつる者の嫡子・養子又ハ名跡相続の二男末子・嫡孫等、御花畑へ召される節は、名代にては済みがたいこと
尤病気の様子に応じては吟味の上臨時に差図に及ぶことも有るべきこと
但御奉公御断奉願候者其身病中之節ハ今まて之通可被相心得候
但御奉公御断りを願う者、其身病中のせつは今まての通りと心得ること
一前条之外諸子弟并浪人或ハ軽輩之内御花畑江被為召候節病中ニ而難罷出節ハ先其段可被相達候名代江申渡支有無之儀ハ
其節々差図候右之通ケ条兼而其旨を相心得居可被申候
以上
前条の外、諸子弟并に浪人或は軽輩の内、御花畑へ召されたる節病中にて罷り出がたい節は、先其段相達されること、名代へ申渡しの支有無のこと
は、其節々差図のこと、右の通りのケ条兼て其旨を心得居る可く申さるる事
以上
茶道肥後古流に関することが書かれた「謹之写」という文書その他が、昨晩締め切りのオークションに出ていた。
この「謹之写」なる文章はずいぶん長いものだが、三種(写真上と下、その他一)ある。その他茶会に関する記録などである。
数枚の拡大写真が表示されていたので、画面をながめながら慌てて釈文を書き上げてみた。
謹之写
旧熊本藩中にて公然三
斎流と唱茶道之指南
致候家元は一軒も無之候
抑々細川三斎公利休居士
七哲之中ニ而格別有名の
御方に有之候事は人皆
知る所也 居士切腹之節
介錯人山本三郎右衛門
被向候 最後之際懐中より
羽與様當時三斎公は羽
柴與一郎被称候と筒に
書付たる茶杓取出し
是れ上けて給はれと相渡され
けるに人皆茶道の奥
義を傳へられたる印にやと申
合けるとそ 去れば利休死後
旧流儀御立候と
て諸人相勤め申候得共余は武家
にて茶道の宗匠なるべき
身にあらす且余の斯道に
於ける利休に及はさること
遠しと申され候て圓乗坊
宗圓の婿養子古市宗庵
を抱に相成其家にて永く
利休の正傳を維持すべき旨
被申付に別に三斎流と唱へ
一流を起すことは堅く禁じ
被置候由に御座候 利休より
円乗坊宗圓に傳へたる傳統ハ
別氏に詳なり参観可有之候
旧熊本藩に於て茶道の家
元と申すべきは古市・萱野〇
今は古田と称す小堀の三家
にて古市家は寛永二年
ママ
三斎公小倉在城之砌利久の
正傳を永く後生に傳へんとの
主意にて被抱下也 古市
宗庵の子孫にて代々茶頭の
家元に有之候 又萱野・小堀
竹の子孫にて是れも茶道の
家筋に有之候 之の三家は
古流と唱円乗坊宗圓より利休の
正傳を代々受継きたる家柄
にて此外に三斎流を唱ふる
茶道の家元無之謂は前
案之通り御座候
右三家の外に近世熊本にては
有馬流と唱ふる茶人有之候
是れは嘉永年間に有馬源八と
申人有之候處家元小堀晋順の
門人なりし後は家を離門し諸
家の書類抔参酌して別に一流
を起し自ら三斎流と唱へて茶
道の指南致候ニ付細川公より
重きとがめに諸事有之候 入門
謂無之候得共其同朋中にては
于今三斎流と謂れ候由にて御座
候事
古市宗安門人
写之者也
三種目の写しは罫紙に書かれているが、「明治三十五年四月 武田知得」との記名があり、宛名に「料理谷和三郎殿」とある。
料理谷氏とは細川家に代々務めた料理人に与えられた名であり、是を姓とされて脈々と今日に至り御商売をされている。
明治の面影、宴会場復活 熊本地震で被災、肥後細川家の料理人邸宅
肥後古流三家の内、古市家はこれを継承されず、高弟・武田智徳が是を継承し現在に至っている。
また、古田(萱野)家も門を閉じられた。まことに残念の極みである。