津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■有吉家文書解説‐「年中行抜粋」(廿)御発駕ニ付而為御見立大津御一宿江罷出候式(二)

2021-08-14 09:57:22 | 有吉家文書

御発駕ニ付而為御見立大津御一宿江罷出候式(二)

一丁口同席一人取合として九曜之御間内御無目敷居より横畳四枚目南之御敷居を後ニシテ御座所を向御出座前坐着之事
 丁口同席(家老)一人取合として九曜の御間内の御無目敷居より横畳四枚目南の御敷居を後にして御座所を向き御出座前に坐着の事

    但御用人、御右筆罷出候を矩ニ列座より進出候事
    但御用人、御右筆罷り出るを矩に列座より進出る事
一列座之面々は皆帯剱、拝聞之面々ハ鷹之御間より右衝立外之様ニ脱剱之事
 列座の面々は皆帯剱、拝聞の面々は鷹の御間より右衝立外の様に脱剱の事

一御出座之節如例皆一同ニ平伏御意左之通
 御出座の節例のごとく皆一同に平伏、御意は左の通

    今度参勤ニ付、謹方之儀ニ付、書付を読聞せ候事
    今度参勤に付、謹方の儀に付、書付を読聞せの事
一御取合之同席御前江奉向御請左之通
 御取合の同席、御前へ向きたてまつり御請のこと左の通

    御意之趣いつれも奉得其意
    御意の趣いつれも其意得たること
  右之通ニ而一同平伏被為入候上ニ而退去之事
 右の通にて一同平伏入られたる上にて退去の事

一右退去之上御城代被仰付候御一門衆より御用番江被仰出之趣被申達候間、佐弐役江其段申聞候事
 右退去の上、御城代仰付られたる御一門衆より御用番へ仰出さる趣申達せられ、佐弐役へ其段申聞せる事
    但御用番江逢被申度旨以坊主被申越候間、彼衆詰間江罷越候得者本行之通被申達候御次被仰渡    
    但御用番へ逢し申度たき旨坊主をもって申越され、彼衆詰間へ罷り越されれば本行の通り申達せられ御次仰渡さる
一御用人より案内有之最前之通九曜之御間御入側江列座御取合之人茂最前之通坐着之事
 御用人より案内有り最前の通り九曜の御間の御入側へ列座、御取合の人も最前の通り坐着の事

    但御一門衆御三家嫡子并御備頭御留守居大頭大御奉行列座無之候事
    但御一門衆・御三家・嫡子并御備頭・御留守居大頭・大御奉行列座はない事

一同席之組者不参ハ追而於宅麻上下着之拝見有之候、御備頭之組ハ例年之御事ニ付、於宅之拝見ハ無之由候事
 同席の組は不参は追って宅において麻裃着の拝見があり、御備頭の組は例年の事に付、宅においての拝見は無いとの事
一御留守中御城代何某殿被仰付候段、例之所々江知せ、組持之同席ハ書付受取候事
 御留守中御城代何某殿仰付らるにつき、例の所々へ知せ、組持の同席は書付け受取る事

一今日御番頭被召出候事 但此召出之儀者御用人江相尋候處寛政七年以来今日比召出之儀致連綿居候段、御用人被申聞候之事
 今日御番頭召出さる事 但此召出しの事は、御用人へ尋ねたる處、寛政七年以来今日比召出しのこと連綿いたし居ること、御用人申聞さる事

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■「丹後三家物語」2・一色五郎討るゝ事

2021-08-14 07:32:44 | 史料

 天正九年の三月に細川父子入國せられしかば、光秀兼て取もたれし契約の事なれば、其年の五月に藤孝
                       (※1)
の息女(伊也)を一色殿(義俊・義有)に嫁し給ふ、同十年九月八日五郎殿宮津の城へ聟入ありて細川父子に對面なり。此時いま
                              (※2)
だ宮の城ならずしてはかばか敷座敷もなかりければ、大手の内家臣有由四郎右衛門の宅に於て五郎殿を饗
應し、既に酒宴に及ける、藤孝の杯を一色殿にさし給ふ、五郎盃とりあげていただかむとせし時に、忠興
一色を討給ふ。かねあひすこし迦
れけん、弓手の肩を討れたり、五郎もさすが壯士にて、勇猛震といへど
も大勢出合取籠で終にはうたれ給ひけり、痛はしかりし有様なり。五郎の扈従蘆屋千八、金川興藤といふ
者有、かれら二人は常に身ぢ
かくつかへし故、此時も召具せられ、次の間に有けるが兼て討手を認し置、
一色殿と一同に二人の者をも討せける。蘆屋、金川勇士にて懩敷抜合討手も手負けれど、多勢に無勢不
叶して二人も討れける。其外の一色衆、兼て大手の門外に町屋を點じて置けるが、城内何さま騒しく、一
色討れ給ふと聞えければ、我先にと抜つれて、追手の門へ込入しを、細川衆切て出、大手の橋を轟し、追
つかへしつ戰ける。手負死人多かりけり、一色方に十三人枕を竝て討れける。生殘りたる一色衆、皆弓木
へ引取て堅固に城をかためたり。

    (※1)一色五郎義有が葬られた盛林寺に残る過去帳には、亡くなった日は天正十壬午年九月廿八日とある。
    (※2)米田監物の屋敷が正しく、その間取図が残されている。

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