越中守忠興、宮津の城には、家臣篠原五右衛門と云者を留守居に殘し、關東へ出陣の跡、上方の亂によ
つて丹後、丹波の諸大名大軍を引率して、此國に寄來、田部宮津を攻けるよし聞ければ、篠原五右衛門、
幽齋へ伺申やう、某こんど宮津の留主を被仰付候へども、小勢にて中々此城持がたし、憨に籠城仕敵の為
落城せば、敵に威を増し候條城をば自焼仕り其御地へつほみ可申由羽檄を飛せて申ければ、幽齋いかにも
納得にて、七月十六日に五右衛門は宮津の城を焼はらひ、留主の人數を引連て田部の城に籠ける。
越中守忠興、宮津の城には、家臣篠原五右衛門と云者を留守居に殘し、關東へ出陣の跡、上方の亂によ
つて丹後、丹波の諸大名大軍を引率して、此國に寄來、田部宮津を攻けるよし聞ければ、篠原五右衛門、
幽齋へ伺申やう、某こんど宮津の留主を被仰付候へども、小勢にて中々此城持がたし、憨に籠城仕敵の為
落城せば、敵に威を増し候條城をば自焼仕り其御地へつほみ可申由羽檄を飛せて申ければ、幽齋いかにも
納得にて、七月十六日に五右衛門は宮津の城を焼はらひ、留主の人數を引連て田部の城に籠ける。
○ 口之間申渡之式
一御殿者中之間 東西之口御襖立ル 政府ハ口之間ニ而御奉行出方之口と坊主とも出ル口は建ニ不及 何茂御間取平常之通ニ
候之事
御殿は中の間 東西の口御襖立る、 政府(奉行所)は口の間にて御奉行出方の口と坊主とも出る口は建るに及ばず 何れも御間取平常の通のこと
一申渡ニ付諸書付者例之通御奉行より差出之事
申渡に付諸書付は例の通り御奉行より差出す事
一重キ筋ハ御目附繰出軽筋ハ坊主繰出し右之境は機密ニて取調候事
但御目附之節ハ繰出名付相渡坊主繰出之節ハ佐弐役より名付相渡候事
重き筋は御目附繰出し、軽き筋は坊主繰出し、右の境は機密(間)にて取調べの事
但御目附の節は繰出名付相渡し、坊主繰出の節は佐弐役より名付相渡しの事
一座着宜段申達候上御用番より竪畳壱枚半南より横畳二枚目之処ニ致座着左候而相済御用番座江参右書附者佐弐役江返し
候書附次第ニハ坊主を以返し候右書付返し候ニも不及候得共事柄次第ニハ於機密間入用之事も有之候間本行之通返し候
事
座着し終え申達しの上、御用番(月番家老)より竪畳壱枚半南より横畳二枚目の処に座着いたし、そうして御用番座へ参り、右書附は佐弐役へ返し
たる書附次第には、坊主を以て返し、右書付返し候にも及ばなければ事柄次第には機密間において入用の事も有るので、本行の通り返す事
一御奉行・御目附列座之儀者依御用筋稀ニ者致列座候 目録渡之節ハ御目付列座勿論之事
但御奉行列座有之節ハ申渡之書付於其座相渡列座無之節ハ相済候上直々御用番坐ニおゐて相渡候事
御奉行・御目附列座のいことは、御用筋により稀には列座いたすこと、目録渡しの節は御目付の列座は勿論の事
但御奉行列座が有る節は、申渡しの書付其座のおいて渡し、列座が無い節は相済の上直々に御用番坐におゐて渡す事
一御請書差上候事右申渡ハ御賞賜御用懸御手当類其外段々有之候事
御請書を差上る事、右申渡しは御賞賜御用懸御手当類其外段々有之る事
一諸被仰出之書付渡候節も繰出等前条之通其節ハ文箱之蓋ニ書付数通次第之通入組口達も相済御奉行より御用番江差出候
間 此書付不間違様御用番能見しらへ可申候且佐弐役より直ニ差出儀も有之候
其儘致持参当人江致口達畢而書面相渡候事
但口達之儀者元来手控なしニ申達候間口達書傍ニ差置候尤事之長キ儀ハ申渡之通ニもいたし候事
諸々の仰出される書付を渡す節も、繰出等前条の通り其節は文箱の蓋に書付数通次第の通り入れ組み、口達も相済御奉行より御用番へ差出し、 此
の書付間違わぬ様御用番能く見しらへ申べきこと、且佐弐役より直に差出すことも有ること
其まま持参いたし、当人へ口達いたし終わって書面を渡す事
但口達のことは元来手控なしに申達すので、口達書傍に差置くこと尤の事で、長い儀事は申渡し通にもいたす事
史談会の若い友人・中村君から、先の例会の際「初手はの」という本(上下巻)二冊を頂戴した。
私はこの本の存在はよく知っていた。著編者が同姓であったからだ。明治18年生まれの真藤ミチヨ刀自が口述する久留米地方の様々な話を、娘さんの同アヤさんがまとめられたものである。
日本経済評論社が常民叢書の第一号として昭和55年12月に発刊されたものである。
その下巻に久留米・真藤家の系図が掲載されている。その出自は、黒田藩の家士であったらしい。二代目が享保16年に久留米藩士となり明治に至っているようだが、初代とされる黒田藩の半右衛門から相当遡らなければ家祖には行きつかないようである。
福岡市総合図書館に真藤(ア)家文書というものが寄託されている。実は野村望東尼のことを調べようと考えたとき、本当に偶然にこの文書の存在を知った。ここに望東尼に関する資料が含まれていたからだ。
そして寄託した方が同姓であり、ここに真藤に関する家系図その他の資料も残されているらしいが、この真藤家は秋月種実に仕えた矢野藤兵衛を家祖としているらしい。
我が家はもともとは、磯部姓で初代・庄左衛門であり、二代目が母方の姓を継いで真藤とした。
庄左衛門が兄・磯部長五郎と共に豊前に於いて召し出されたのは、元和九年閏八月のことである。
初代は三斎公に随い八代入りしている。二代目が母方の姓を継いだということは、豊前時代に結婚したということであろう。
豊前もしくは筑前に、二代目の生母となる真藤姓の家が存在していたことになる。
幕末の筑前・黒田藩は守旧派と勤皇派の路線争いが激しく、明治維新直前勤皇派は一掃され多くの人が死罪や流罪などに処された。その後すぐに今度は守旧派が同じ目を見ることになった。
勤皇派で流罪の刑になった人の中に、真藤某が居り、望東尼も在った。真藤(ア)家文書の真藤家はこのお宅であろうと推察している。「初手から」の久留米真藤家もここに繋がっているものと思われる。
福岡市総合図書館に真藤(ア)家文書を拝見に行きたいとずっと思っているが延び延びになってまだ実現していない。
コロナ騒動が落ち着いたら、福岡まで出かけてみようと思っている。