慶長五庚子のとし、奥州會津の城主長尾景勝御征罰の時、細川越中守忠興は、家康公の御味方にて宮津
より出陣せられける。幽齋は隠居之身なれば、田部の城に居給て忠興計出られける。斯て忠興雑兵どもに
三千の人數にて、六月十一日宮津の城を出馬なり、御暇乞申さんとて、田部の城へ立より其夜は田部に宿
陣たり、幽齋は天守にのぼり、軍勢の行列を見物してぞおはしける。忠興は若州を輕て近江路へ打出んと
丹若の境なる吉坂まで押れける。爰に若州熊川には近年關所有けるが敦賀の城主大谷刑部少輔下知をくは
へ熊川の關所を彌堅固にして往來たやすからざるよし聞えければ、忠興申されしは若州より近江路へ打出
んとおもへども存子細の有ければ、丹波路を行べしとて吉坂より取て返し丹波路を山家へかゝり伏見へこ
そ出られける。幽齋此事を聞給ひ怒て申されけるやうは、刑部少輔が計ひとして忠興を可支子細もなし。
頃日世間物念の時節なればいかにも關所へ行かゝり子細を見届可通を吉坂迄押たる陣を取て返し、丹波路
へ出し事は不覺悟の至也。忠興存命仕自然に歸陣したりとも對面はすまじきとて豁歯を嚙て被怒けるが、
こらえず
又無程小野木、田部をせめし時勅命とは云ながら今少不怺して幽齋城をわたされて京都へのぼり給ひけれ
ば、忠興も不悦、互に隔心出來り漸々不和に成けるが、後は次第に募つゝ父子の間の侍ども、一日に両度
迄鑓を合せし事有けり。
昼食後しばらくしてTVのチャンネルをかちゃ/\していたところ、BSで時代劇をやっている。
田中麗奈の役どころの武家のご新造が、離婚して婚家を去るシーンから見始めたが、何の作品かわからないまましばら見ていてこれは藤沢周平の作品の映画化だなと確信した。最後のテロップで「山桜」という作品であることが判った。
2008年の作品らしいが、この藤沢の短編小説がが映画化されていたことは知らなかったが、いかにもしっとりとした藤沢作品が見事に映画化されていた。
かっては縁談を断った侍(東山)が、藩の上層部の不正を追及して籠舎に入れられる。主人公は婚家には後添いとして嫁ぐが、まるで下女のごとくに扱われ、あるきっかけで離縁となる。
叔母の墓参りに詣でた折、侍に山桜の一枝を折ってもらったことがあった。そんな思い出にひたりながら、侍の無事を願うのである。
その思いはまた燃えるような心情である。
東北の山々に雪が降り積もり、春が訪れ小川の流れに緑が目立ち、そしてまた山桜が咲いた。
そんな山桜の一もとを携えて、主のいない侍の家を訪れる。一人家を守る母親は彼女の来訪を心から喜んでくれる。
籠舎にある小窓からも山桜がみえる。参勤で江戸に在った藩主が桜咲く国元へ急ぎ帰国の歩を進めている。
希望の春の到来を予感させながら、映画は「終」となる。
時代劇と呼ばれるジャンルの映画は、かっての隆盛期とは比べ物にならないほど数が減った。
しかし、このような「文芸作品」としての時代劇は、見事な進化をとげている。藤沢周平の小説の力を改めて感じざるを得ない。
全編見ることが出来なかったが、本当に良い作品であった。そのうちにDVDでも借りて全編見てみたいと思う。
少々間が明いたが、熊本出身の津山藩士・大村荘介が表した「肥後経済録」からその人物評を取り上げてみたいと思う。
荘介は宝暦七年(34歳)まで兄・大村源内の厄介とし源内の知行地の玉名で過ごしている。それから京に上り熊本出身の高名な儒者・西依儀兵衛の許に寄宿した。
41歳になって江戸で津山藩に招かれて儒学を教授し66歳で同国で没した。
荘介の人物評にはかなり辛辣な部分もあるが、在熊34年間に彼が得た知識であり、これが世評として流言されていたのであろう。
ここではその侭をご紹介する。
■朽木内匠(朽木家6代・昭直、養子・実同氏氏昭子、享保18・正相続、城代・側大頭・備頭、安永5・12致仕)
3,000石城代相勤申者、此者無役の時より世情にかゝはらす武具を嗜、武芸を好ミ申候ニ付、莫大の褒美給候
■有吉大膳(有吉本家11代、立邑、延享元年相続、宝暦12・8月蟄居33歳、大奉行堀平太左衛門呪詛事件による)
18,000石、代々家老ニて三人目の席ニて御座候、若年より不肖の趣ニ付色々世話も御座候得共、何分埒明不申候故隠居被仰付、弟
を家督ニ被申付候、猶年若ニ付席ハ先祖よりの席ニて居申候
■松井帯刀伜式部(松井本家8代・営之)
いまた若年に御座候得共、器量抜群の者にて家老役被申付候、二十歳の時江戸相勤申候、年輩の者より諸事よく執捌申候て、君へ
も貴重せられ候由ニ御座候
■尾藤金左衛門(5代知正・左着座)
3,000石、甚た不肖の者ニて御座候、家老ニも侍大将ニも可相成家柄ニて候得とも不座被申付、物頭の上座ニなり申候
■松野亀右衛門(大友宗麟・二男利根川道孝の家系 6代・亀右衛門・宝暦二年六月~宝暦四年三月 用人、
7代・信次郎(亀右衛門)天明二年五月~寛政元年一月(病死)番頭)(不行跡について参考:松野亀右衛門御咎ニ付落書)
父子先代側家老相勤申候処、不行跡ニて役儀被差除、閉門被申付候、伜只今亀右衛門と申候、又々家老ニ罷成申候
■筑紫権左衛門(5代・照門 享保十二年七月(物奉行)~元文三年七月 中小姓、元文三年七月~宝暦二年六月(被差除)番頭)
700石、番頭数年相勤申候、淫乱の事有之、閉門被申付候、家久しき者故暇不申付、番頭ニ被申付候
■中西平助
至て家久しき者ニ御座候得とも、代々小身ニて五人扶持拾石ニて至極貧究仕候、当平助は志有之ものにて、文武の芸別て委舗、且
又細工をよく仕り、家居・家具・武具まて皆細工仕候ニ付、三四百石取者より道具持居申候、三四百石取者より道具持居候、しか
れとも具足の細工は難成、代物無之押移り申候処、いつ迄待候ても求め申候期ハ無之候ニ付、女房の所持居申小袖を売払申候て具
足を求申候、当時の風義具足は質ニ遣候ても女房に小袖をきせ申やうなる人情ニ候処、右の通り仕候ゆへ、諸人はなはだ珍しく
存、評判におよひ申候、或ハ称シ、或はそしり候も有之候、此事君にも被聞召、まつ弐人扶持ニ五石の加増給候、猶取立被申度様
子ニ候得とも、何の勤功も無之、其後急江戸詰被申付候、五日限出立仕候様と御座候処、諸用意ニ不及、兼て所持仕候事ゆへ何の
差支も無之罷立申候、帰国の後又加増有之、其組の組頭ニ被申付候、其後年数相立、知行百石の蔵米給候、また武具細工巧者ニ
付、城内武具の支配被申付候、其後又百石を地方ニ御直し給候、七代ニ至り俄ニ立身仕候、