・・・・・・・・・・・・・・・長岡方には誰とも知らず三人許一説忠興興元有吉なりと有手鎌を以て突廻る
敵には闇打の合圖有れ共味方は酒狂の半亂心義俊、金谷、蘆屋勘八、金澤彌蔵主従四人同じ枕に突ふせら
れて倒ふす。小西藤十郎、石川文吾、稲富右平太數ヶ所の手疵をかふもりながら此場を切ぬけ敵の首數多
船に打込、早櫓を立て弓木山へ注進に歸る。由良の川尻に参ければ田邊の城よりの合圖遅しと山々へ遠見
を出し待居たる荒須帯刀に逢て如此の物語して無念の泪を流し弓木山へ歸りける。
荒須帯刀 同 甚藤太 同 金次郎 加納正十郎
由利金吾 島田久兵衛 逸見五郎 同 八郎
河田傳内 佐竹藤右衛門 今安佐助 岩淵助内
福田平蔵 荒川寛治 山本四平 後藤新兵衛
立歸て此趣を大江、杉山に語る。大江越中守が曰義俊斯なり申さるゝ事は覺悟の上の事也。今度京都將
軍家の廻状到來の日より御切腹すゝめ申度存けれ共、せめて城内へ入込萬のうらみを告て其上御切腹あら
せ度すゝめ申て計ひける也。此上は田邊の打手を引請はな/\しき軍して打死の名を後代に殘さんと評定
半成る所は一色宗左衛門範國五郎義俊の首を絹に包み自から背負ひ外に敵の首二三十家來に提させ血刀持
て立歸り、淺手ながら疵數ヶ所蒙り候へば御免有べしと打臥ながら語けるは、昨日の沼田がはからひは一
々敵の工みし所也闇打の次第といひ敵の多勢に合圖ありて名を隠せし段々我の水量に違は有らず、其上興
元松井有吉三手に成て出陣する先船は輕ヶ崎を越えると見えたり。今日當城へ向ふにあらず定て竹野、熊
野の浦々より責かけ當城より東西へ加勢を出させ籠城の軍士の小勢成るを計て當城へ向はん為め忠興は出
陣あらずと覺え候、急覺悟給ふべしと語りける。大江、杉山承て尤成る注進の次第也当人得と承知仕る。
範國どのには御休足有て手疵の養生仕給ふべし能くも義俊殿の御首敵の手へ御渡し無りしと挨拶終て、両
人連署の觸状を三通したゝめ其儘三郡へ觸られける。然所廿四日卯の早天熊野郡佐野備前守氏家大和守よ
り注進來て語けるは昨廿三日午刻下りより松倉の取手に軍はじまり責手の大將松井四郎右衛門いまだ船上
りもせず砦の人數に鐵炮にて打すゝめられ得寄侍らず候所に、水取山・油池山に寄來りていまだ戰眞最中
いかゝ其後の事は不存候へ共様子申上奉るとぞ語りける。又高屋良閑入道の子息遠江守より中心來り申け
るは、長岡玄蕃頭興元凡五六千ばかりの勢をしたがへ下岡の城を攻る所に、昨廿三日の朝四ッ時より軍初
りいまだ勝負わかたず籠城の人々火水に成りて相戰申候とぞ告たりける。斯る所へ吉原越前守義清百二十
餘騎にて入城有り義俊の戰死を悔み御嘆かぎりなくおはしけるを大江、杉山、一色宗左衛門申けるは御嘆
さる事には候へ共義俊の打死は御覺悟の御事なり。此上の思召いかが有べく候や承度存る也と尋ける。