津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■背戸屋風

2021-08-19 10:21:40 | 徒然

               長雨の上がればすずし背戸屋風   津々

 久しぶりに朝から青空が広がりました。しかし明日以降も雨の予報でこの迷惑な雨はいつになれば終るのでしょうか。
昨年の今頃は、37度越えの日が続いていて、ブログには爺様のボヤキが続いていました。
ゴミ出しを兼ねてAコース(3.4㌔)を歩きましたが、汗だらだらです。
散歩をしている人間は私一人です。熊本もご多分に漏れずコロナ感染者の数が急増しています。
雨が降りつづき、外出もままならない日があり、数は減るのではないかと推測した爺様の考えは浅はかなものでした。

 帰り道の我が家近くになると、背戸屋(路地)が80mほどつづきます。
この辺りは低地で、かっては畑地で水路があったのでしょう。開発されて宅地となり、水路は暗渠となりその脇には下水道などを通す公有地があって巾2mほどになっており、両側の住宅地は1mほど盛り土がされていますから、7メートルほどの高さの建物が両側にあるという感じです。
そこでこの背戸屋に入ると、まことに気持ち良い涼しい風が吹き抜けて、有難いことです。

                                                               

:背戸屋とは熊本の方言ですが、古語辞典にある意味合いとは少々異なるようで、熊本の方言としては「家が両側に迫る路地」という意味のようです。

 

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■有吉家文書解説‐「年中行事抜粋」(廿ニ)御在國年五節句御禮式・一

2021-08-19 08:25:43 | 有吉家文書
  御在國年五節句御禮式・一       
        五節句=人日(じんじつ。正月七日)、上巳(じょうし。三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(ちょうよう。九月九日)

一五半時之揃ニ付麻上下着五時出仕之事
 五つ半時の揃ニに付、麻裃着五つ時に出仕の事
一御機嫌伺無之候事
 御機嫌伺いは無い事
一同席不参之面々并隠居より之使者者差出相成候間相揃候上坊主より知せ候得ハ御用番口之間二枚屏風之角西と南ト壱間
 之所
直ニ座着使者は坊主衝立之陰より繰出候得ハ北之壁付東頭ニ罷出謁候
 同席(家老)で不参の面々并隠居よりの使者は差出しに相成り、相揃ったる上坊主より知せあれば御用番口の間の二枚屏風の角、西と南と壱間の所
 直に座着、使者は坊主衝立の陰より繰出せば北の壁付き東頭に罷出て謁する事

    但御一門衆使者御在國者御小姓頭之方江差出ニ相成候間御請詰所へ答ハいたし候由之事
    但御一門衆の使者は、御在國者御小姓頭の方へ差出しに成り、御請け詰所へ答はいたすことの由の事
一右使者謁相済候得者機密間より申上之書付二通当代一通隠居同差出候間御請書上之箱ニ入坊主を以御用人江遣候事
 右使者謁相済めば、機密間より申上の書付に通り当代一通、隠居も同じく差出せば御請書上の箱に入れ、坊主を以て御用人へ遣す事
一御禮相始候節ハ御小姓より案内有之御一門衆同席三家嫡子 見習出方無之人共 一同ニ多門より御立之間外東板椽を通り中
 柱
御間江罷出佐野御間御椽側御使番列座之前を罷通坐着風鳥御礼口より入御杉戸を後ニ〆南頭ニ座着御一門と同席中之
 間タ不及欠席致坐着候 右中柱迄通筋
出仕之面々坐着ニ相成居候得共会尺ニ不及罷通候事 此儀書付ハ同席風鳥之御杉
 戸後ニシテ
 御禮が始った節は御小姓より案内が有り、御一門衆同席(家老)三家嫡子 見習の出方が無い人達 一同に多門より御立の間、外東板椽を通り中柱の
 御間へ罷出、佐野の御間御椽側御使番列座の前を通り坐着、風鳥御礼口より入り、御杉戸を後に閉め南頭に座着、御一門と同席(家老)中の間欠席
 致すも及ばず坐着する 右中柱迄通筋出仕の面々坐着に成り居れば会釈に及ばず罷り通る事 此のことの書付は同席風鳥の御杉戸後にして

一御出座之節大御目附平伏之様子を見坐着致し候付御向詰無之と決何れも平伏之事
 御出座の節、大御目附平伏の様子を見て坐着致すに付、御向詰無之と決し何れも平伏の事
一御座着之被遊候を奉見上候而一同ニ九曜之御間御敷居内ニ入壱畳目ニ而一同ニ御禮申上候尤御一門衆ハ二畳ニ進御祝儀
 申上候段
丁口より御一門衆不参之時ハ同席丁口より申上被申上夫より御一門衆始九曜之御間南之御入側江列座之事
 御座着遊ばされるを見上たてまつりて一同に九曜の御間の御敷居内に入り、壱畳目にて一同に御禮申上げること、尤御一門衆は二畳目に進み、御祝
 を申上げること、丁口より御一門衆不参加の時は、同席丁口より申上げ夫より御一門衆始め九曜の御間南の御入側へ列座の事

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■「沢庵和尚の手紙」を推理してみる

2021-08-19 06:21:04 | オークション

                                 【模写】沢庵宗彭 書状軸装 三月四日付

               

   ヤフオクに出品されている東海禪寺の沢庵和尚の書状である。宛名が判らないが、文章の内容からすると細川忠利か?
西の丸で数寄屋の部屋が出来たのであろうか、これについて忠利(越中守)から届いた書状に対する返事であろう。
「八つ時分その元迄参上」とある所を見ると、細川家の辰の口邸を尋ね、一緒に登城しようとでもいうのだろうか?
「上意忝い次第」と感激の様子もうかがえる。

沢庵宗彭は大徳寺の住持の時分、寛永六年紫衣事件のために出羽國に流された。赦免の後、徳川家光が建立した東海寺(品川区)の開山となった。
寛永十六年(1639)の事であるが、東海和尚紀年録(七段目左から三番目)によると寺に入ったのは四月の事らしい。この書は十六年の者ではないことが判る。

一方細川忠利は天草島原の乱が終息した後の同十六年三月廿六日に参府している。沢庵和尚とほぼ同時期である。
そして寛永十七年の五月に西国大名に暇が与えられ、忠利は同十八日に江戸を立ち帰国の途に就いた。
それから二度と江戸の地を踏むことはなかった。その翌年忠利は下血が続くようになり三月十四日死去した。
つまりこの書状は沢庵が東海寺の住職となった後から、忠利が帰国するまでのごく限られた年の「三月四日」のものである。
寛永十七年三月四日であることはほぼ間違いない。「熊本藩年表稿」にも、残念ながら記録が残されていない。
西の丸で数寄屋のお披露目と共に茶会が開かれたのであろうか。


出品者から釈文がつけられているが、僭越ながら当方で少々手を加えてみた

                  従越中殿之御
                  被相貴札奉得
                  其意候、西之丸之
                  御数寄敷被為
                  見候半也。
                  上意次第難
                  申述候、八時分
                  其元迄可致参上候。
                  恐惶謹言
                       東海寺
                  三月四日 宗彭(花押)

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