昨日の史談会では、横井小楠研究家の徳永洋氏をお迎えして、「横井小楠との交流があった偉人、西郷隆盛・坂本龍馬」をお聞きした。
ユーモアを交えた大変判りやすい解説をいただいた。
私は予行演習として、氏の御著「横井小楠‐維新の青写真を描いた男」を読んで臨んだところである。
さて、私は先に書いたように「鷹将軍と鶴の味噌汁」を購入してここ数日読んでもいる。
徳永氏の御著の中に、徳川家が天皇家をいかに敬っていたかを表す資料を紹介されていた。(同著p25)
小楠は意外に思ったのだろうか、これは横井小楠の「遊学雑志」に掲載されているそうだ。
国立国会図書館デジタルコレクションからは該当項を見つけ出せずにいる。
「ある時、将軍家慶の許に、鶴の献上があったが、家慶は『まだ京都の朝廷に初鶴を献上していないから食べない』といったので、父である大御所家斉に献上した。
ところが大御所も将軍と同様の事を言われ、とうとう献上された鶴は腐ってしまった」というのである。
特に小楠がこのことにふれているのが興味深い。
「鷹将軍と鶴と味噌汁」では、残念ながら横井小楠の「遊学雑志」のように具体的な例には触れていないが、「鷹狩」がもともとは朝廷で行われてきたものが、武家の好むところとなり将軍家にこれらの事がゆだねられたことに鑑み、朝廷への献上が最優先となったらしい。
豊前時代の細川家でもたびたび鶴を将軍家に献上している記事が見られる。
将軍家に献上するとこれは将軍家のものとなり、ここから朝廷へ献上されることもあり、その後将軍家が食するということらしい。
また有力幕閣などへも献上されたようだ。
又、逆に御三家や有力大名には「御鷹の鶴」の御下賜もあったらしく、細川家も名誉あるその内の一家であった。
一例をあげると、元和三年(1613)十二月、忠興は「御鷹之鶴被為拝領候由忝儀候」とて、御礼の使者を出している。
これは単なる家臣ではなく特別な使者として、「荒川与三ニ下申候、御奉行衆へも大炊殿(土居大炊)江も前一戸之城をもち候ものゝむすこ、我等親類之ものにて候由可被申候、大夫殿へも鶴被遣候由候、いかやうの使にて御礼可被申上も不存候、かるき使を進上仕候様おの/\被存候へハ如何候間、右之通可被申候事」と、幽齋室麝香の姉(荒川治部少輔晴宣室)の孫である荒川与三を使者としたことを説明している。一方では「与三口上不調法ニ可在之間、田中半左衛門一人さしそへ、こうけんを仕候様ニ能々可被申付候事」と書いている。与三は口が不調法だといいながらこれを正使とした。
そして忠興妹伊也(一色義有室・吉田兼治再嫁)の女・徳雲院の壻で、長束大蔵大輔正家の子である田中半左衛門をさし添えた。
このように将軍家から「鶴」を拝領することは大変名誉なことであり、大名数家のみに与えられた。
それゆえわざわざ細川家の近い身内二人を特別なものとして派遣されたのである。
さて献上される鶴は「丹頂」ではないのかと考えていたが、これはあまり美味くないらしい。
「鍋鶴」が美味しいらしく、これは割と広い範囲で鷹狩によって捕獲できたようだ。
「福岡県史・近世史量‐小倉細川藩」においても、鶴の捕獲の記事は多く見受けられる。
現在では鹿児島県出水市に、ロシアや中国から10,000羽ほどが飛来して越冬するが、世界の9割ほどを占めるという。
豊前ならずとも、肥後国にも当然飛来していたことだろうが、まだ詳細な記録には触れたことがない。
しかし、地元のデパート「鶴屋」の名前の由来である、「鶴屋敷」には松の木に鶴が飛来していたことによるという。
また、本妙寺田畑とよばれた花園町にあった沢村大学のお茶屋は「鶴の茶屋」とよばれ、近くの高台にある「つづら林」は別名を「鶴の林」と呼ばれていたそうで「鶴」由来の地名である。
熊本県地名辞典を見ると「鶴」という字を冠した地名がいくつか見受けられるが、これはどうも「鶴飛来」に由来するものではないようだ。
しかし豊かな田園地帯を有した肥後の地には、現在の出水市とまではいかなくとも、鶴の飛来が見られたことであろう。
偶然二冊の本に共通点を見出して、少々長い駄文となった。
尚、過去のブログにも「鶴」に関することを書いているので、合わせてお読みいただければ幸いである。
■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(五)