津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■綱利公の出浮き

2021-08-22 14:25:32 | 歴史

 20日のブログ「徒然なか話」に、大変貴重な観音坂下の坪井川の風景の写真が紹介されていて驚いてしまった。
現在坪井川の流路は変わってしまっているが、かっては「内坪井」地域を取り巻くように流れていた。
現在も排水路状の小さな流れが、その面影を残している。
 
じつは元禄九年正月廿七日、綱利公は坪井川を遡り八景水谷にある弓削新介(御使番300石)の野屋敷に遊んでいる。
坪井川の源流は熊本市改寄町の「水口」ここから南下して八景水谷の上で堀川が合流している。
「御奉行所日記抄出(新熊本市史・資料編第四巻p57)」によると、正月五日ころから準備があわただしかったことがうかがえる。舟は坪井川の河口・高橋から八景水谷に上らせた。15㌔ほどの距離がある。舟の運航を妨げる橋が数か所あり、一時的に撤去された。
どうやら行きは駕籠であったらしく、帰りのみが御座舟ということらしい。
「徒然なか話」に紹介ある写真を見ると、幅も広く水深も問題ないようでこの綱利公の話も納得できる。
内坪井を大きく蛇行して舟は進んだのであろう。
川沿いの人たちは、お目見えをどうすべきかを藩庁に問うたが、これらの事は不要だとされた。まさか川沿いから見下ろされては如何かということであろうか。当時綱利53歳、いかにも綱利公らしい豪儀な話ではある。

 付け足し:一方、横手には綱利の側室の屋敷があったようで、綱利は花畑邸から坪井川を下りここを訪れていたという地元の話が残っている。
筒口屋敷のことであろうか。
直ぐ近くの妙立寺にはその側室・仁田氏の一族のお墓が残っており、またお寺の由緒を見ると、18歳で亡くなった吉利の寄進で建てられた建物の事などの記録も残されている。
花畑邸からは大した距離ではなく、御歩きになった方が健康の為にもよろしかろうにと余計なことを思ってしまう。
ちなみに仁田氏は元禄十五年の六月に江戸で死去している。嫡男・與一郎(14歳没)、二男・吉利(18歳没)の生母だが、二人とも江戸生まれであることからすると、この話は少々眉唾でないかと私は思っている

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■有吉家文書解説‐「年中行事抜粋」(廿五)佐野御間申渡之式

2021-08-22 08:43:45 | 有吉家文書

  ○佐野御間申渡之式

   組外以下比着座
一申渡之書付等如例佐弐役より御用番江差出候事
    申渡しの書付等は例のごとく佐弐役より御用番へ差出しの事
    但鷹之御間申渡一同ニ有之節者鷹之御間申渡之書付例之通御奉行より順覧ニ差出其後佐野御間申渡之書付を鷹之
    御間申渡之書付之口ニ
佐弐役手許ニて継候而佐弐役より直ニ御用番江差出候事

    但、鷹の御間での申渡し一同に有るせつは、鷹の御間申渡しの書付例の通り御奉行より順覧に差出し、其後佐野の御間申渡しの書付を鷹の
     御間申渡しの書付の口に佐弐役手許にて継いで佐弐役より直に御用番へ差出しの事

一同席通筋者鷹之御間申渡之通ニ而同御間外之御入側より繰付之前を踏通り佐野御間御入側之方 佐野之御間西御襖際より
 御床
之前ニ参南向東頭ニ座着之事
    同席(家老)通り筋は、鷹の御間申渡しの通にて同御間外の御入側より繰付の前を踏通り、佐野の御間御入側の方 佐野の御間西の御襖際より御床
 の前に参り南向東頭に座着の事

一御用番者同御間南より横畳四枚目西より弐間を右ニ当繰付之方を向座着之事
 御用番は同御間南より横畳四枚目西より弐間を右に当繰付の方を向き座着の事
一御用番座着之上ニて御小姓頭より繰出候得者同道人当人を召連同御間御敷居内東頭ニ平伏鷹之御間之通候事
 御用番座着の上にて御小姓頭より繰出せば、同道人が当人を召連れ同御間御敷居内にて東頭に平伏することは鷹の御間の通りである事
    但同席之子跡目被仰付候節ハ同道人無之候事
    但同席(家老)の子跡目仰付られる節は同道人は無い事
一申渡相済其座ニ而御奉行・御小姓頭江書付相渡儀鷹之御間之通尤引続鷹之御間之申渡有之節ハ此所ニ而書付不相渡鷹之
 御間申渡相済例
之通相渡候事
 申渡しが済み其座にて御奉行・御小姓頭へ書付を渡し事は鷹の御間の通り、尤引続き鷹の御間の申渡有しの節は此所にて書付は渡さず、鷹の御間で
  申渡しが済み例の通り渡す事

一右之通引続鷹之御間申渡有之候節ハ此所申渡相仕廻御用番先ニ立列座之面々之跡ニ付御奉行・御目附茂引添中之御入側
 より鷹之御間江参例之通座着之事
 右の通り引続き鷹の御間で申渡しが有る節は、此所で申渡しを仕廻、御用番が先に立列座の面々の跡に付、御奉行・御目附も引添い中の御入側より
  鷹の御間へ参り例の通り座着の事

    但両御間之境御襖ハ建有之候事
    但両御間の境の御襖は建こまれてある事
一着坐之人隠居家督之節父子出方有之候得者子ハ大組ニて候得共父一同ニ佐野御間ニて申渡親出方無之子計之節ハ鷹之御
 間ニて申渡候事
 着坐の人の隠居・家督の節は父子出方有れば大組であるが、
父と一緒に佐野の御間にて申渡し、親出方がなく子計かりの節は鷹の御間にて申渡しの
 事

一着坐之人隠居家督之節父子出方有之候得者子ハ大組ニて申渡候事

 着坐の人の隠居・家督の節は父子出方有れば、子は大組にて申渡しの事
    但御用人平井太郎八隠居申渡後詰間江罷出候へも文化十一年七月廿一日御奉行町孫平太右同断之節ハ口之御間ニ
    て致対面候事
    但御用人平井太郎八が隠居申渡し後詰間へ罷り出たが、文化十一年七月廿一日御奉行の町孫平太右同断の節は口之御間にて対面いたした事
一阿蘇大宮司も右御間ニをゐて分職御奉行同道申渡候事
 阿蘇大宮司も右の御間において分職御奉行(寺社担当の奉行)同道のうえ申渡しの事

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■二冊の本と「御鷹の鶴」

2021-08-22 06:03:34 | 書籍・読書

 昨日の史談会では、横井小楠研究家の徳永洋氏をお迎えして、「横井小楠との交流があった偉人、西郷隆盛・坂本龍馬」をお聞きした。
ユーモアを交えた大変判りやすい解説をいただいた。

私は予行演習として、氏の御著「横井小楠‐維新の青写真を描いた男」を読んで臨んだところである。

 さて、私は先に書いたように「鷹将軍と鶴の味噌汁」を購入してここ数日読んでもいる。

徳永氏の御著の中に、徳川家が天皇家をいかに敬っていたかを表す資料を紹介されていた。(同著p25)
小楠は意外に思ったのだろうか、これは横井小楠の「遊学雑志」に掲載されているそうだ。
国立国会図書館デジタルコレクションからは該当項を見つけ出せずにいる。
「ある時、将軍家慶の許に、鶴の献上があったが、家慶は『まだ京都の朝廷に初鶴を献上していないから食べない』といったので、父である大御所家斉に献上した。
ところが大御所も将軍と同様の事を言われ、とうとう献上された鶴は腐ってしまった」というのである。
特に小楠がこのことにふれているのが興味深い。

 「鷹将軍と鶴と味噌汁」では、残念ながら横井小楠の「遊学雑志」のように具体的な例には触れていないが、「鷹狩」がもともとは朝廷で行われてきたものが、武家の好むところとなり将軍家にこれらの事がゆだねられたことに鑑み、朝廷への献上が最優先となったらしい。
豊前時代の細川家でもたびたび鶴を将軍家に献上している記事が見られる。
将軍家に献上するとこれは将軍家のものとなり、ここから朝廷へ献上されることもあり、その後将軍家が食するということらしい。
また有力幕閣などへも献上されたようだ。

 又、逆に御三家や有力大名には「御鷹の鶴」の御下賜もあったらしく、細川家も名誉あるその内の一家であった。
一例をあげると、元和三年(1613)十二月、忠興は「御鷹之鶴被為拝領候由忝儀候」とて、御礼の使者を出している。
これは単なる家臣ではなく特別な使者として、「荒川与三ニ下申候、御奉行衆へも大炊殿(土居大炊)江も前一戸之城をもち候ものゝむすこ、我等親類之ものにて候由可被申候、大夫殿へも鶴被遣候由候、いかやうの使にて御礼可被申上も不存候、かるき使を進上仕候様おの/\被存候へハ如何候間、右之通可被申候事」と、幽齋室麝香の姉(荒川治部少輔晴宣室)の孫である荒川与三を使者としたことを説明している。一方では「与三口上不調法ニ可在之間、田中半左衛門一人さしそへ、こうけんを仕候様ニ能々可被申付候事」と書いている。与三は口が不調法だといいながらこれを正使とした。
そして忠興妹伊也(一色義有室・吉田兼治再嫁)の女・徳雲院の壻で、長束大蔵大輔正家の子である田中半左衛門をさし添えた。
このように将軍家から「鶴」を拝領することは大変名誉なことであり、大名数家のみに与えられた。
それゆえわざわざ細川家の近い身内二人を特別なものとして派遣されたのである。

 さて献上される鶴は「丹頂」ではないのかと考えていたが、これはあまり美味くないらしい。
「鍋鶴」が美味しいらしく、これは割と広い範囲で鷹狩によって捕獲できたようだ。
「福岡県史・近世史量‐小倉細川藩」においても、鶴の捕獲の記事は多く見受けられる。
現在では鹿児島県出水市に、ロシアや中国から10,000羽ほどが飛来して越冬するが、世界の9割ほどを占めるという。
豊前ならずとも、肥後国にも当然飛来していたことだろうが、まだ詳細な記録には触れたことがない。
しかし、地元のデパート「鶴屋」の名前の由来である、「鶴屋敷」には松の木に鶴が飛来していたことによるという。
また、本妙寺田畑とよばれた花園町にあった沢村大学のお茶屋は「鶴の茶屋」とよばれ、近くの高台にある「つづら林」は別名を「鶴の林」と呼ばれていたそうで「鶴」由来の地名である。
熊本県地名辞典を見ると「鶴」という字を冠した地名がいくつか見受けられるが、これはどうも「鶴飛来」に由来するものではないようだ。
しかし豊かな田園地帯を有した肥後の地には、現在の出水市とまではいかなくとも、鶴の飛来が見られたことであろう。

 偶然二冊の本に共通点を見出して、少々長い駄文となった。
尚、過去のブログにも「鶴」に関することを書いているので、合わせてお読みいただければ幸いである。
          ■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(五)

   

 

 

 

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