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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■一色軍記(11)

2021-08-05 07:57:34 | 史料

 弓木城戰ひ米田監物、稲富伊賀手柄多し。
 軍納り丹波京都の加勢六月朔日開陣す。
 同三日京都において明智光秀將軍信長を討つ。
 一色の殘徒秀吉に走る。
 成相寺の山徒大谷大乘衆其外一國の僧六月朔日に歸陣す。
 松井佐渡守 初名四郎右衛門 長岡の聟と成て久美庄の陣代と成る。
 後長岡忠隆同居す。
 有吉武蔵守 初名將監 加税庄四辻城主となり陣代をつとむ。
 細川玄蕃頭興元一萬五千石を別て吉原山城主として地名を峯山に改む、領地丹波郡竹野郡網野庄和田野
 吉澤溝谷なり。
 石井五右衛門を下宮津市場に置く、のち父藤孝剃髪して玄旨法印幽齋同居す。
 永井増補府志曰天正十年十月朔日一色五郎義俊の妻は弓木山落城の後府中中村といふ所に身を隠義俊の
無跡念比にとむらひ今は浮世に思ひ殘る事なし、我身の末頼置て自害せんと覺悟を極めつゝ玄蕃頭どのお
はする峯山の城へ尋ねんと王落峠の難所をこえ大野の里に    
    世のうさは大野の里のしのふくさ
       しのふにぬるゝ袖そかなしき
 詠じてひと夜人の軒にあかし峯山城へ行てかくの事くの案内申入られけれども田邊の聞えいかがあらん
と留主居志水伯耆守、澤田出羽守門外より返し参らせければ元來し方へ立歸り楠田掃部が落城の跡長岡村
にて自害ありける也。
 同書に此姫の自害有し地を姫御前村と名付くる也、同書に玄蕃頭の仰に依て御死骸火葬の塚を築菊の岡
と名付く、此姫おくきのかたと申せし故也と記。其後忠興、興元此姫の年季をとむらひ給へば一村の
を呼出して施工を給る。罹出て我々は當火の者成りといひけるより今に一村のを當火といふ也。
又其火葬せし地なりとてヒソ岡といふ所ありと傳ふる也。
    註:以上の部分12行が一色五郎義俊室「伊也」に関する錯誤の記述である。
 青山家日記藤孝息女満信妻自後山落行米田監物追縣同國藤之森而捕連歸一色家従者或逃退或降又秀吉
走者多又諸記に奥三郡十三城と記し、合戰の跡は長尾、平岡、吉原、新治、黒邊、岩木、下岡、佐野、大
井、水取、油池、松倉、坂井の十三ヶ所なりと永井尚長の日記に見えたり。

 

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