横井小楠が江戸遊学に出たのは天保10年(1839)3月である。
豊後路をたどり鶴崎へ出た。ちょうど兄の時明が鶴崎郡代を務めて居り、舟出にはあいにくの天気で数日を兄の許に過ごした。
そして江戸に到着したのが4月16日の事である。
徳永洋氏の著「横井小楠」によると、木挽町の御屋敷(現在の歌舞伎座がある辺り)の不破万之助御小屋に一か月ほど世話になったとある。5月半ばにはここを出て愛宕下の某邸に移つた。
一か月も厄介になる不破万之助とはいったい何者なのか?徳永氏は詳しくは触れておられないが、どうやら徳永氏の一族らしい。
ヒントは熊本市が制作したらしい「横井小楠関係家系図」にあった。
先にもふれたが、横井小楠の兄・時明の奥方「清子」が不破氏である。ただし本姓は徳永氏、不破氏の養女となって時明に嫁いだ。
不破家の詳しい系図が良くわからないが、清子の義兄か義弟が万之助であるようだ。
つまり小楠は、兄嫁の養家の兄弟ということになる。
■ 不破源次郎家 (南東39-5)
忠左衛門 (1)側小姓・御扈従役歟 百石 (於豊前小倉御侍帳)・・忠右衛門
(2)歩之御小姓頭衆 百石 (肥後御入国宿割帳)
1、十之允 (1)御小児性衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(3)御使番衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
2、新右衛門(養子 実・長瀬氏)
御詰衆・四番小坂半之允組 四百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
3、十右衛門・長政(実・前田氏 初・長十郎)
四百石 御番方九番 屋敷・山崎
4、新右衛門 九番与 三百石
昌命 室・松野七蔵妹 二子高瀬楯之助武延養子・文平勝正 職禄千石・側用人
5、万平 (1)御番方・尾藤・組脇 二百石 (2)四百石
明和七年二月~明和三年五月 玉名郡代
安永三年六月~安永五年四月 山本郡代
寛政七年二月~寛政十年三月 川尻町奉行
寛政十年十月~寛政十二年七月 奉行
不破観翁 名は昌之、萬平と称し、観翁と号す。藩に仕へて食禄三百石、使番、川尻作事頭、
江戸留守居、奉行職等の数役を勤む。当時其名高し。
享年未詳。坪井宗岳寺に葬る。
八代殿へ封事:不和万平が藩の家老八代殿(松井氏)へ人物登庸、郡政改革、財政整理等
五ヶ条を具陳したもの
6、敬次郎 河尻町御奉行・町方奉行所触 五百石、内二百石御足
文化七年五月~ 小国久住郡代
文政三年八月~文政九年十一月 川尻町奉行
文政九年十一月~文政十二年四月 奉行副役
文政十三年七月~ 菊地郡代
不破敬次郎 名は昌清、藩に仕へて郡代、奉行副役となる。性剛毅明敏、至る所治績あり。
人其徳を称せり。天保八年五月廿七日没す。
➡ 7、萬之助 旧知 三百石
8、萬次郎(敬之助) 松山権兵衛組・御番方四番組
9、源次郎 三百石
もう10年ほど前、不破家のご子孫から(奥様の実家だったか?)ご連絡をいただいたが、先祖附をお持ちでないということでお送りしたことがある。こういうことはご存知であったろうかと今になって思い出深い。
付け足し:今日は「近世大名・領国支配の構造」から、清子の実家である徳永家(徳永洋氏のご先祖様であろう)を見つ
け出した。芦北地方の惣庄屋であり、是も先に書いたが徳富蘇峰・蘆花兄弟の祖父・美信に清子の伯母(叔
母?)が嫁いでいる。兄弟の叔父・昌龍が徳永家に養子として入った。
感想:コロナ禍のなか、時間つぶしにはこんな謎解きが一番良い