津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■不破万之助とは

2021-08-03 18:25:49 | 人物

 横井小楠が江戸遊学に出たのは天保10年(1839)3月である。
豊後路をたどり鶴崎へ出た。ちょうど兄の時明が鶴崎郡代を務めて居り、舟出にはあいにくの天気で数日を兄の許に過ごした。
そして江戸に到着したのが4月16日の事である。

徳永洋氏の著「横井小楠」によると、木挽町の御屋敷(現在の歌舞伎座がある辺り)の不破万之助御小屋に一か月ほど世話になったとある。5月半ばにはここを出て愛宕下の某邸に移つた。
一か月も厄介になる不破万之助とはいったい何者なのか?徳永氏は詳しくは触れておられないが、どうやら徳永氏の一族らしい。
ヒントは熊本市が制作したらしい「横井小楠関係家系図」にあった。
先にもふれたが、横井小楠の兄・時明の奥方「清子」が不破氏である。ただし本姓は徳永氏、不破氏の養女となって時明に嫁いだ。
不破家の詳しい系図が良くわからないが、清子の義兄か義弟が万之助であるようだ。
つまり小楠は、兄嫁の養家の兄弟ということになる。

  ■ 不破源次郎家  (南東39-5)
     忠左衛門  (1)側小姓・御扈従役歟 百石 (於豊前小倉御侍帳)・・忠右衛門 
             (2)歩之御小姓頭衆 百石 (肥後御入国宿割帳)
    1、十之允   (1)御小児性衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
             (2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
             (3)御使番衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
    2、新右衛門(養子 実・長瀬氏) 
               御詰衆・四番小坂半之允組 四百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、十右衛門・長政(実・前田氏 初・長十郎) 
               四百石 御番方九番 屋敷・山崎
    4、新右衛門  九番与 三百石
        昌命 室・松野七蔵妹 二子高瀬楯之助武延養子・文平勝正 職禄千石・側用人
    5、万平    (1)御番方・尾藤・組脇 二百石  (2)四百石
                 明和七年二月~明和三年五月 玉名郡代
                 安永三年六月~安永五年四月 山本郡代
                 寛政七年二月~寛政十年三月 川尻町奉行
                 寛政十年十月~寛政十二年七月 奉行

        不破観翁 名は昌之、萬平と称し、観翁と号す。藩に仕へて食禄三百石、使番、川尻作事頭、
               江戸留守居、奉行職等の数役を勤む。当時其名高し。
               享年未詳。坪井宗岳寺に葬る。

        八代殿へ封事:不和万平が藩の家老八代殿(松井氏)へ人物登庸、郡政改革、財政整理等
                  五ヶ条を具陳したもの
    6、敬次郎   河尻町御奉行・町方奉行所触 五百石、内二百石御足
                 文化七年五月~    小国久住郡代
                 文政三年八月~文政九年十一月 川尻町奉行
                 文政九年十一月~文政十二年四月 奉行副役
                 文政十三年七月~    菊地郡代
        
不破敬次郎 名は昌清、藩に仕へて郡代、奉行副役となる。性剛毅明敏、至る所治績あり。
                人其徳を称せり。天保八年五月廿七日没す。
  ➡ 7、萬之助   旧知 三百石
    8、萬次郎(敬之助) 松山権兵衛組・御番方四番組
    9、源次郎         三百石

もう10年ほど前、不破家のご子孫から(奥様の実家だったか?)ご連絡をいただいたが、先祖附をお持ちでないということでお送りしたことがある。こういうことはご存知であったろうかと今になって思い出深い。

付け足し:今日は「近世大名・領国支配の構造」から、清子の実家である徳永家(徳永洋氏のご先祖様であろう)を見つ
     け出した。芦北地方の惣庄屋であり、是も先に書いたが徳富蘇峰・蘆花兄弟の祖父・美信に清子の伯母(叔
     母?)が嫁いでいる。兄弟の叔父・昌龍が徳永家に養子として入った。

  感想:コロナ禍のなか、時間つぶしにはこんな謎解きが一番良い

 

 

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■一色軍記(10)

2021-08-03 06:43:38 | 史料

(天正十年五月)廿五日は早天より籠城の軍士を改め著到を付べしと大江、杉山に申付られ石川文吾秀澄筆を取
る凡籠城八千五百餘人と記ける。巳の刻下り吉原城近藤玄蕃頭善明よりはやうち來りて申けるは高橋下岡
の城に軍起り岩木の城に軍起る中郡は長尾平岡に軍起る今朝よりの戰ひ勝負あれど分ち不申、又岩木の城
に軍ありと聞て等築寺に籠たる伊藤彌左衛門、茂呂助之進、松田遠江守五百餘人の軍士を三方に分て横鎗
を入て一色五郎義俊と名乗先日田邊の城中に於て闇打有し返禮鎗一筋参らせんと、しゆれんの突入あるひ
は馬上あるひは歩行立面もふらず百人許かけ通りかけ戻し三方より突立ればさしもの大軍是に驚き色めき
立ば城門をひらき、星野周防守是範、岡半平信幸名乗連て打て出る。木村長門守、松田越中守引續て打て
出る、長岡勢爰彼所に切ふせられ突ふせられ大將有吉いひ甲斐なく濱の手へ引退く、もとより味方は打死
の覺悟なれば勝にのつて追縣々々打取人かず六百許と相見え候由吉原の城迄はやうち來り申候。扨又平岡
の戰ひは御指圖有ける通り土俵を以て川水をせき上三方に勢をふせ八ヶ所の砦に旗さし物をひるがへし、
城内のかためは金江右衛門五郎、同土佐守、菊井兵庫、横田權太夫、狩野下總守、石子紀伊守、山口弾正
持口七ヶ所げんぢうに守ひかへたり。長岡山長城には楠田掃部正、笠縫團太郎、山岡民部、白杉主税、岩
淵日向守楯籠平岡に軍始らば長岡勢裏切にまわり長尾城に敵寄なばひら岡より横鑓を入両城一手に相戰ん
と相圖を定侍所に、寄手の大將玄蕃頭興元、麻野吉左衛門、稲富伊賀守其外澤田弾正、正源寺大炊介、澤
村佐方の一族城際に押寄相戰ふ城内には金江石子持口に觸渡けるは味方八方砦にをかためやうがいおろか
ならずとは申ながらわづか二千餘人の小勢なれば恐るべきは敵の付入なり、必やふいに打出る事なかれ近
付く敵を弓鐵炮を以て打すゝめよ砦の人々より裏切出べし、敵のいろめくを見て凱聲を合馬を竝らべて打
て出よと進止めるに依て城兵敵の寄るに驚かずただ弓鐵炮のみきびしく打懸たり。寄手の大軍弓鐵炮にす
ゝめられながら在家をこぼち竹束を付て堀を越え塀を乘らんと進みける。折よしと石子紀伊守、狩野下總
守鐵炮をしきりに打立火矢を以て竹束を打崩せば敵の大勢堀に沈み凡三百餘人許一手に死す。菊井・横山
は二百餘人西の木戸をひらき横間より切て出る興元佐方の兵是にさはぎ観音寺の本陣へ引退く、また吉原
の加勢大谷刑部左衛門成家百騎ばかりくつばみを揃てかけ立突て廻る。大將成家八尺の樫棒を本末に角付
たるを馬上に振て打立る、相續て金江良等西村助右衛門、蒲田九郎左衛門、小牧平十郎、岸村彌惣太打て
出る長岡興元たまり兼てや本陣さして引たるける薄暮をかぎりに軍終り候と注意す。義清、大江右の趣を
聞て金江、石子、加納の方へ連書を送り今日の軍の手柄を申つかはし、興元かく打負なば田邊の加勢を乞
侍らん間今宵逸見五郎・同八郎に千賀常陸をさし添夜打につかはし可申と存る也、城内よりは必人を御出
し御無用たるべく候と申送られける。
  其後の軍記不知此分は一色の末葉府中中村一色三郎右衛門の筆にて寛永元年甲子仲夏記せし書にてい
  づれの時に焼失候哉火にかゝりたる紙數前後取亂れて五十七枚殘れり。
 永井増補府志曰天正十年壬午五月廿八日弓木山落城一色五郎義清は宮津城今の大手南角に屋舗にて切腹
則城内に塚あり。

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