津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■有吉家文書解説‐「年中行抜粋」(廿)御発駕ニ付而為御見立大津御一宿江罷出候式(一)

2021-08-13 14:49:00 | 有吉家文書
御発駕ニ付而為御見立大津御一宿江罷出候式(一)

一御退出後宿本早々御仕舞野袴着出立大津会所江致到着候事
 御退出の後宿本早々御仕舞野袴着して出立、大津会所へ到着いたす事
     但伺御機嫌之稜付持参之事
    但御機嫌伺いの稜付持参之事
一夫より麻上下着御茶屋御門ニて下乗家来より致先答御玄関より上御用人間江罷通候事
 夫より麻裃を着し御茶屋御門にて下乗、家来より先答し御玄関より上り御用人間へ罷通る事
     但供帰且家来ハ残置候儀等御迎之節之通候事
    但供帰り且家来は残置くこと等、御迎の節の通りの事
一御用人江奉伺御機嫌候事
 御用人へ御機嫌うかがいの事
一召出之節御用人より案内有之御居間入口二枚屏風之外ニ脱劒御帰國之節之通罷出候今晩御手熨斗頂戴無之此節御吸物・
 御酒・御肴一種被遊
御祝右之御残於御前頂戴被仰付候間御入側江罷出暫御咄申上此時御用人被召出儀も有之下候上御用
 人江
御禮申上候事
 召出の節御用人より案内が有り、御居間入口の二枚屏風の外に脱劒し、御帰國の節の通りに罷り出、今晩御手熨斗頂戴は無く、此節御吸物・御酒・
 御肴一種遊され、御祝の御残りを御前において頂戴仰付られ、御入側へ罷り出暫く御咄申上げ、此時御用人を召出されることも有りその上、御用
 人へ御禮申上げる事

     但御人拂之御用も有之臨時之御模様ニ可應事
    但御人拂の御用も有り、臨時の御模様に應じるべき事
一御発駕後御花畑御間内■々見分之儀申上候事                      ■ 扌編にメ (締め)
 御発駕後、御花畑御間内締々見分のことを申上げる事           
     但文政十二年御発駕之節本行之通
     但文政十二年御発駕の節本行の
一右畢而於御用人間御吸物御酒御肴一種一汁三菜之支度被下置候間頂戴之上猶御禮申上旅宿へ引取候事
 右終わって御用人間に於いて、御吸物・御酒・御肴一種一汁三菜の支度下し置かれ、頂戴の上猶御禮申上げ旅宿へ引取る事
     但此頂戴ハ御断申上候而も不苦
     但此頂戴は御断り申上げても苦しからず
一右御前通且御次ニて之頂戴ハ以前より之御究ニ而文化十一年之各別御倹約中ニも御様子違不申候事
 右御前通且御次にての頂戴は以前よりの御究めにて、文化十一年の各別御倹約中にも御様子違い申さずの事

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■時間つぶしにYouTube

2021-08-13 14:22:45 | 徒然

 コロナと大雨で外出もままならず、紀伊国屋書店のウェブサイトを眺めて本を探しているが、これは読みたいというものに出会わない。
本棚から随分読んでないな~と思える本を取り出して読んでいるが、気が進まない。
一番良いのは「古文書」にふれることだが、これも図書館が使えず(開館中だがダメ・・)資料をコピーできず不可。
ならばYouTubeでもみて時間つぶしをしようと、まずは永青文庫や肥後細川庭園(元・新江戸川公園)あたりを散策しようと考えた。

       江戸川公園から肥後細川庭園まで散歩
      江戸川橋あたりから神田川を左にして、江戸川公園・ホテル椿山荘・白玉稲荷神社と進み胸突坂を登って永青文庫前でUターン、肥後細川庭園へという
        コースを、解説もなくただ淡々と速足で歩を進めていて大変好感が持てる作品

    #東京 #Tokyo #デート #散歩 #朝活 #006 Cherry blossoms in Edogawabashi
      こちらは神田川の桜を愛でながらの作品。上記作品と同様、江戸川橋から同様のコースをたどり、肥後細川庭園から「幽霊坂」を登って目白通りにでて、
        永青文庫のほうに右折して「胸突坂」をくだり、江戸川橋のほうへ戻る旧細川目白邸を一回りするコースである。
        こちらは解説が入っているが、くどくなくて好感が持てる。

               ■【フランス人が感動】初めての日本庭園で日本の美に触れてみた
      こちらは日本庭園が大好きだというフランス人が、肥後細川庭園を散策する様子をまとめている。
           永青文庫と隣接していて、15mほどの高低差があると思うがそのさまも映像化されていて有難い。

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「丹後三家物語」1ー細川父子丹後國入來之事

2021-08-13 06:50:21 | 史料

 丹後國福知山の住人、細川兵部大夫藤孝子息與市郎忠興、丹後入國の由來をくはしく尋るに天正の比ほ
ひ、織田上總介平信長、弓箭盛にまし/\て、東美濃尾張、西は播州を限、五畿南海悉信長に属し奉る。
然といへども丹後の國はいまだ御手に入ざりしを明智日向守光秀が計ひとして、河北石見といふ者を大將
に任、雑兵二三百ばかりにて丹後國を大物見にて差越ける。河北石見先與佐郡石川谷に打入、堡二三ヶ所
攻落し其いきほひに國中を遵見せんとせしか共、國侍強して在々所々にて河北が人數を打とめける間、河
北石見はう/\の體にて丹波をさして北歸りぬ。猶も明智は當國に謀をめぐらし、終に一色五郎を賺、細
川の聟に仕る事を取持ぬ。細川與市郎忠興は、光秀が婿たるゆへにや、丹後半國を細川父子にまいらせつ
れ、一色、細川兩旗にて堅固に治め給ひなば、始終然るべきのよし光秀強て取持けり。一色殿は代々丹後
の國主として、一色五郎近年は宮津八幡城に居城たりしが、天正三年父左京大夫卒去の後、國中の諸士五
郎殿を背き、我々にして曾以不敬時節なれば、本意にはあらねども、流に棹さす心地して、光秀が計ひに
ぞ任らる。中郡竹野郡熊野郡は一色殿與佐郡加佐郡は細川とさだめ、其上一色殿は奥郡手つかひの
為とて弓木の城へ移し、八幡山をば細川に渡さるべしと定りて、細川父子入國の事を領掌せられける、是
ぞ一色滅亡の基ひなり。斯て細川父子の人々天正九年の三月宮津に至り八幡山へ入城せられけるが、兼て
河守邊より奥宮津までの地侍百姓等細川に随ひけり、城侍には公庄、但馬、下村の城主北庄髭九郎此等の
者共先細川殿に随ひぬ。翌年子の年より又宮津の平地海によつて城郭を築れけるが、丹波の國より明智が
人足多く來て、城普請を致ける。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする