ひざ痛に悩まされ丸三日程散歩を休みましたが、今日は昼食後おそる/\歩いてみることにしました。
膝の調子を見ながら、具合が悪ければ引返すつもりでゆっくり歩いたのですが、意外と順調でAコース3.5㌔を(5,141歩)を50分で歩きとおしました。
階段の上り下りは用心しないとまた膝にぎくりときそうなので、用心に用心を重ねて無事帰宅と相成りました。
スマホが記録したデータによると、この散歩の消費カロリーは220キロカロリーですから、体重を落とすためにはまだまだ距離が足らないようです。6,000歩を目指してコース設定を変えてみようと思っています。
今日の熊本は良い天気になり風はあるのですが気温が33度ほどあり、汗びっしょりです。
朝晩の涼しさが感じられるようになる随兵寒合(ずいびょうがんや)の訪れ迄半月ほどとなり、夏の暑さもあと一息、ひざを用心しながら人気のない町中を歩き続けます。
日曜のせいかもしれませんが、行きかう車の他には、人に出会うことなく歩きましたが恐ろしい感じがします。
コロナに罹らない様、皆様十分にお気を付けください。
〇犬追物御賞賜申渡之式
一、御殿之中之御間ニ而此申渡於政府は無之申渡御間取平常之通
御殿(花畑邸)の中の御間にて此の申渡し、政府(御奉行所においては申し渡しは無く御間取は平常の通
一、書付者例之通御奉行より差出之事
書付は例の通り御奉行より差出しの事
一、繰出名附御小姓頭江相渡目録ハ御目附相渡候事
但御小姓頭繰出ニて繰付共御使番口之間江罷出取計之事
繰出名附は御小姓頭へ渡し、目録は御目附へ渡す事
但御小姓頭繰出にて繰付け共、御使番口の間へ罷り出取計いの事
一、御小姓頭より案内有之西之入口より入例之座ニ坐着之事
御小姓頭より案内が有り、西の入口より入り、例の座に坐着の事
一、御奉行・御目附列座有之西之二枚襖之所ニ東向南頭ニ坐着之事
御奉行・御目附列座有り、西の二枚襖之所に東向・南頭に坐着の事
一、相済申渡之書附ハ其坐ニて御奉行へ相渡候事 此書付ハ御品物引渡等之しらへ有之由ニ付無間違様相渡可申候
但御小姓頭被相渡候書付者無之候之事
相済す申渡の書附は、其坐にて御奉行へ相渡す事 此書付は御品物引渡し等のしらへが有る由に付、間違いなき様相渡す可べき事
但御小姓頭相渡されたる書付は無い事
一、相済候段御小姓頭より知らせ無之御目附江者御用番より為知候事
相済したること御小姓頭より知らせは無く、御目附へは御用番(月番家老)より知らされる事
一、御請書差上候事
御請書を差上げる事
先の大雨で熊本城の薬研堀が水堀に化したことが、某TV局のニュース番組で取り上げられ現在も映像が残されている。
https://www.fnn.jp/articles/-/224306
地元アナウンサーのコメントの跡に、違う人のように思われる人がコメントをしているのに「やっけんぼり」と言っているように聞こえる。「やげんぼり」「やっけんぼり」どちらが本当?
さてこの薬研堀、最近(26日ころ)どうやら水が引いたらしい。史談会の中村君が写真を添えて教えてくれた。
Screenshot₋20210829₋081344₋2.pngから引用
丹波福知山の城主、小野木縫殿頭は内々石田治部少輔三成に一味して、山陰道の敵味方を窺けるが、小
野木心に思ふやう、田部には細川幽齋居城せり、面の敵なればまづ丹後の兩城を可攻と、隣國近邊廻文し
軍勢を催しける。かゝる處に大阪城より小野木が許へ申來るは、細川越中守忠興が妻子自害せし上は、忠
興千に一も味方に不参事決定せり。急ぎ田部の城を可攻よし到來す。小野木に一味の人々は、藤掛三河
守、谷出羽守、高田豊後守、杉原伯耆守、別所豊後守、生駒左近、小出大和守、都合其勢一萬餘騎なり。
縫殿頭は福知山に在城し、陣代として舎弟神山喜三郎并竹元與右衛門といふ者に、人數を付てぞつかはし
ける。慶長五年七月廿日早天に、田部の城に押よせて、竹多束を付、仕寄をかまへ、大鐵炮を放かけ晝夜
しらかべ
をわかたず責ける程に、あまり鐵炮夥敷、西の大手は 堊 は少も不殘打落壁下地あらはりたり。當國の人
數は皆忠興に随て關東に下りければ、かたのごとくの無人の籠城危かりとは申せども、幽齋さすが老攻に
て大敵を事ともせず、防戰の手配り越度はすこしもなかりけり。爰に寄手の内但州山口の住人、赤澤主水
正手の者どもに云ける、城中はいかにも無勢と見へたるぞ、此城を攻事はわづか四五日の程なれども、防
箭の鐵炮中々まはらにすくなし倡やかた/\、某が手より乗入一手柄すべしと思ふはいかゞあらんと云け
れば、赤澤が手勢八十人然へしとぞ同じける。さらば潜に乗へしとて七月廿五日の未明に、大手の海際よ
り竹はしごを持より、鑰なわを打かけ、主水眞先に乗入ければ、手勢不殘乗入ける。とかくする内夜明け
れば城内是を見付てニの丸の櫓より筒先を揃て打ける間、群雀を闖ことくなれば、赤澤を初手勢八十人ひ
とりも不殘討れける。誠に赤澤其志は武けれ共小勢を以大城に向ひ、理不儘に働ゆへ、あへなき討死致け
る。神山喜三郎諸手へ觸廻しけるは、赤澤無下に討れたるとて猶豫有べからず、いざや不疼可攻とて、喜
三郎が手勢を以て各が持口をすすみける程に、諸勢おとらじと攻より既に外曲輪西南の隅を責破り、我も
/\と押込ける。此城三の丸堀廣く矢倉高し、霞のごとく鐵炮を打出しければ、寄手五六百人時の間に打
倒さる。喜三郎も手負て引兼けるを竹本與右衛門肩に縣て引ける門寄手も先引退、此後はよせての諸將示
合、力せめにする事停止とて、其手々々を固めめる。斯所に後陽成院此事叡聞まし/\て、細川の幽齋は
當時歌道の達者武家の和歌所としつる者ぞ、いかでか是を失む、いそぎ兩陣和睦させよと宣下有ければ、
三條大納言田部に下り給ひ、勅命を演られける。因茲兩陣既に和談に成、九月十二日諸將圍を解ければ、
徳善院が名代前田主膳正城を請取在番す。此時幽齋年來相傳の源氏物語并廿一代集を禁裏へ捧奉り、一首
の歌をそへられたり。
い に し へ も 今 も か は ら ぬ 世 の 中 に
心 の た ね を 殘 す こ と の 葉
其後幽齋上京して、しばらくの程東山吉田の邊に幽閉の住居せられける。