〇孝心御賞美之手数
一、当代之人拝領物被仰付候ハ鷹之御間申渡之節於同御間頭同道渡候拝領物無之ハ当人出方無之組頭江同御間ニ而書付相渡
候事
当代の人で拝領物を仰付られるときは、鷹の御間で申渡しの節、同御間において頭同道にて渡すこと、拝領物が無ければ当人の出方はなく組頭へ同
御間にて書付を相渡す事
一、無足拝領物被仰付候節ハ父兄同道中之間ニて申渡候拝領物無之ハ同御間ニ而組頭江書付相渡候
但中之御間之節御目附列座者無之候事
無足の者が拝領物仰付られたる節は、父兄同道にて中の間にて申渡すこと、拝領物が無い時は同御間にて組頭へ書付を相渡すこと
但中の御間の節は、御目附列座は無い事
一、家類之分は却而口之間ニ而組頭等江書付相渡候事
右之通文化十年八月相究候事
家類の分は却て口之間にて組頭等へ書付相渡す事
右の通り文化十年八月相究られる事
關ヶ原表、家康公御利運になりしかば、諸大名に御暇下され、國々へ歸られける。此等細川越中守忠
興、権現様へ被申上けるは、小野木縫殿頭が居城福知山は、幸某が在所へ歸る道なれば、通りかけに踏潰
し小野木が首を見て、可能通にて候と申されければ、家康もさよう思召處なり、忠興心次第たるべき旨御
有ければ、慶弔五年十月十七日、福知山の城を取巻て只一乗にと揉立ける。去る十月縫殿頭田部の城を責
けるゆへ、其意趣甚深ければ、小野木が首を見るまでは、日夜をわけじと下知せられける。此福知山の城
は巽の方よりさし出て岫崎に本城を取る、其下は蛇が鼻とて東西引廻したる、大河の内に堀を掘、此ほり
要用の堀なれば、峻事幾尋とい限なし、然るに萍有て淺見えければ、細川衆先手の人數われ先にと飛入ほ
どに、若干の人數溺死せり。うしろ堅固の繩と見えたり、忠興是を見られて、蛇が鼻おもては閣とて、南
之丘より攻ける所に、忠興の舊友山岡道阿彌はせ來り、扱に入ければ小野木城を開つゝ、則剃髪染衣と成
寿仙院
上方へ退けるが、忠興憤怒不醒而又兵を追かけさせ、龜山にて捕て壽全庵と云寺にて無敢腹を切せたり。
慮
法名は松樹院殿□貞岳大居士と號せり。