津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■風邪四日目

2021-12-03 12:08:55 | 徒然

 風邪がまだ完治しない。
昨晩は8時過ぎにはベッドに入り、久しぶりに11時間も睡眠をとり、鼻水もクシャミも一応止まっているが、咳をすると相変わらず胸が背中が痛くて往生している。
79.9歳の爺様はすっかり免疫力が落ちてしまっている。これでコロナに罹ったら間違いなくあの世行きになりそうだ。
また「あまびえ様」にお出ましをいただいて、家内安全を願わなければならない。
朝食後奥方がまた「風邪は寝るが一番、寝なさい」というから又2時間ほどベッドにもぐりこむ。
朝方はどんよりしていた天気が、温かい太陽が照り込んできた。11時前、起き出してコーヒーを一杯飲んだところに奥方曰く、「ゴミ出しに行く元気ある?」
随分朝の話とは違うではないか? これは「命令」だと承って外に出たが、風が冷たいこと・・・
雰囲気としては今日中には快気ということにしたいと思っている。アイスクリームが食べたい。

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追伸:背中の痛みは未だ取れませんが、午後からどうやら日常を取り戻しつつあります。 15:18記

コメント (2)
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■部分御舊記・軍事部九(5)覚

2021-12-03 11:27:05 | 史料

      物頭衆上ル覚書壱ッ
       

一、安場仁左衛門
   今度御陳中御鉄炮之玉薬万事手のつかへ不申候様ニ仕残所無御座候 いつれも御鉄炮頭衆も右之通申候 其上二ノ丸ニ
   而
自身働も御座候得とも他国衆証拠人ニ而御座候付書上不申候 細田栖院・生田四郎兵衛・小河内勝兵衛此衆と一所
   ニ参
働申由ニ御座候

一、郡 安左衛門
   今度天草・嶋原御陳中 肥後様御供仕罷越御奉公無残所万事はかをやり肝煎申候 其上城乗之砌も自身働御座候付今
   度
差上申御帳ニも書上申候

むてかつ
一、加藤安大夫
   今度有馬本丸乗口如形早ク御座候証拠人御座候

大所人
一、早水忠兵衛
   右同理り

 長谷部文左衛門
 竹原少大夫
   此両人今度御陳中御仕寄道具調申儀又万事人わりの儀 肥後様より被 仰付候処に殊外精を出ㇱ埒を明申候

     已上
    七月五日         清田石見守判
                 志水新丞判
                 小笠原備前守判
                 長岡式部少輔判
                 長岡右馬助判
                 有吉頼母佐判
                 長岡佐渡守判
      坂崎内膳正殿


  塩津与三左衛門書物

    申上覚

一、有馬城攻之時私かせき申達 御耳不申候ニ付御いとま之儀申上候処段々之様子可被 聞召上之旨被 仰出忝次第可申
  上様無御座候
一、去年有馬之城二月廿七日に御せめ被成候刻本丸すと口より升形之石かき下まて一揆共四五十人ほと居申候処西郡要人
  佐かゝられ候を私見申候 一揆とも居申所より十間斗てまへのおさきの小坂にて追付申候 私ハ坂之上江走り上り弓の
  うらはすを差出是ニ取付被上候得とも要人佐へ申上候ヘハてん/\の働きニ仕候へとしかり被申候時一揆共居申候所
  より三間斗手前ニ少きりきし有之所江走り懸り候得とも入江伝右衛門居申候 左候而要人佐も坂を被上候所鉄炮にて打
                                                 本ママ
  たれ手をおい被申候 其跡よりよろひ武者二人御鉄炮衆一人私伝右衛門居申所江参候を一揆共見候而石を打鉄を持つき
  かゝり候を御鉄炮衆私両人にて射申候内ニ御鉄炮衆ハ鉄炮にうたれ其まゝ相果申候 私ハ矢有次第射申候 私射申候矢あ
  たり申候時ハ伝右衛門よく見被申候へと度々言をかけ申候 其後私とも四人一同ニ切きしを上り候ヘハ二人ハ鉄炮にて
  被打たをれ申候 其時私持候弓を捨たをれ候ものゝ鑓を取伝右衛門・私両人にて敵と戰申候所味方余多参升形の下ニ居
  申敵共を大勢打果申候事
一、私升形の石垣を上リ候得は石にて池きわに打落され申候 此段は国友茂兵衛・宮本角兵衛・山田権兵衛具に存候事
一、右之通ニ被打落申ニ付池きわにて少いきを入海手之隅より十間ほと西に塀一二間やふれ候石かき下ニ付のりこミ可申
  とのはたらきの様子ハ小林半三郎存候 のりこミ候時ハ中根半丞・私両人一番に乗込半丞ハ塀に添西のかたニ居申候敵
  にかゝり申候 私ハ塀きハより一二間ほと内の小屋きハに敵十四五人ほとなた長刀を持居申候をつき崩し申候 此段ハ二
  見や長左衛門・中根半丞鑓之石つきに取付乗申見申由申候 則長左衛門証拠之丞写差上申候事
一、四郎か家きハへ右之一揆とも引取申候を私一人つけ参候処よろひ武者八九人ほとすと口にて私に追付申候 四郎か家き
  ハにて追つめ戰之内に一揆共に大勢二口よりつき出味方をつきつくしこと/\く右之乗り口のやうにこミ出され申候
  すと口二三間さきにて不存ものと私三人ふミとめ戰申候処二人ハうたれ私壱人しはし戰二三人も一揆共をつきたをし
  候得とも大勢にてつきたてられ須戸口のかんきへつきおとされ申候処にすと口より味方大せいミたれ入申候を一揆と
  も見申候而引取申候 其時私立あかり見申候ヘハ田坂平兵衛升形の塀きわに居申候間言をかはし唯今の働見被申候哉と
  申候ヘハ中々慥ニ見申候平兵衛申候 則兵衛証拠之状写差上申候事
  右之趣最善差出仕御吟味場へ差出申候得共私江とかくの御尋も無御座候ニ付不審に奉存右証拠人之状之写仕差出申候
  処御吟味衆より証拠人ニ被成御尋候得ハ証拠人之口ちかひ申由にて私はたらきの様子御立不被下候 証拠人と引合御せ
  んさくをとけられ可被下儀と存候得共左様にも無御座其まゝ被差除候 かやうの儀に偽りを申上候と請人も存候而ハ御
  奉公難成御座候付御いとま之儀申上候 右之通可然様ニ被仰上被下候ハゝ忝存候以上
   寛永十六年二月十二日     塩津与三左衛門判
      河喜多五郎右衛門殿
      堀江勘兵衛殿
      椋梨半兵衛殿

    田坂平兵衛状之写
  猶々尤参候而御見廻可申候得共石にてうたれ候所いたミ申ニ付御見廻不申候已上
態一書致啓上候此中ハ得御意度奉存候 然ハ我等事も一昨日罷帰申候 次ニは貴殿有間之城にて御神妙なる御手からのたん可
申上と存候ま御ひまにて御座候ハゝかならす/\御來儀奉待候恐惶謹言
  三月六日             判
     塩津与三左様
          人々御中

    同人状之写
御撚拝見仕候今度有馬城御せめ之刻本丸にて四郎家きハより味方悉くつきくつされはいくんの時貴殿ふミとめ敵つき留被
成候段一々見届申候 三人ふミとめ弐人うたれ申之由被仰越候得共弐人うたれ被申候ハ見不申候 何時も右之せうこ慥ニ我等
宜可申候間其■心得可被成候恐々謹言
  五月九日             判
     塩津与三左衛門様      田原平兵衛

    二宮長左衛門状之写
猶々城乗之時御のりこミ被成そこにての御はたらき慥ニ見とゝけ居申候間何時も口ちかい不申候以上
御撚拝見申候今度有間にて城のり之時本丸うミてのすミより十間ほと西の中程より我等石垣につき居申候時中根半丞方貴
殿江もことばを替し何時も同時に乗可申と申居候処ニ其まゝ城乗之時我等一番乗とさし出仕候 貴様儀中根半丞殿儀両人我
等と同前ニ被成御乗てき十五六人ほとかまへ居申候を貴様おひちらし其元ニ而之働之儀我等こまかに見届申候間何時も御
尋候ハゝこまかに可申上候条其御心得可被成候 猶縣御目可申承候恐惶謹言
  五月八日             判
     塩津与三左衛門様      ニ宮長左衛門
            貴報


 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(三)

2021-12-03 07:38:20 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(三)

 そのかみに契りそめつる神代までかけてぞおもふ天橋立

 雑部「丹後入國のとき橋立を見にまかりて」。天正八年、四十七歳の七月、藤孝は
信長によつて丹後に移封された。洛西長岡の領主なりし藤孝は、石山合戰・雑賀征伐な
どの功によつて榮轉したものと考へられるが、實は從來の領主一色氏の抵抗などあつ
て、丹後入部は容易でなかつた。竟に抵抗を平らげ、田邉城に移つてから、某月某日
天橋を見物した。 〇そのかみに契りそめつる云々、かやうに自分が丹後に封ぜられ
て、天下の名勝天橋を領内に持ち、見物に來ると云ふことは、不思議の縁で、遠き遠
き昔(神代)からの約束事であつたのだらう。その、昔のことまでも心に思ひ浮べな
がら、今日、この絶勝をものあたりに見ることよ。かけてぞ、は橋の縁語。初めて天
橋に對した驚異感もこもつて居り、單なる敍景にあらずして、何かしら深いものを感
する佳郡とおもふ。

 見るが如く仰げ神代の鏡山けふあらたまの春の光を

 春部「天正九年正月江南安土に越年せし元旦の試筆に」。藤孝四十八歳。湖東安土
城の造營は天正四年正月着手、六箇年餘を費し、同十年に完成したのであるが、右歌
の詠まれた九年正月には略々出來上つてゐた。丹後國主藤孝は信長に召され出頭した
のだが、或は一色氏討伐の勞をねぎらはれたのかも知れぬ。尤も、天正六年正月にも
召されて饗及び點茶を賜はつてゐるゆゑ、さやうの事は折々あつたのだらう。 〇鏡
山、蒲生郡に在り、標高三八五米突に過ぎないが、古今集以來歌枕として名高い。安
土城から南西約三里、蒲生野を越えて手にとる如く見える。一首の意、眼前にありの
ままに見える。それをその通り皆仰ぎ見よ、神代ながらの、あの鏡山、その山に今日
しも射してゐる初日出の、芽出度くも匂やかなる光を。新築の大城郭にをさまつた信
長の威光を、その初日の光によそへて慶賀した心持なること、いふ迄もあるまい。神
代の鏡山、神代ながらの古き名山、しかも「鏡」は神代と縁が深い。春の光を、「光」
また鏡に縁がある。あらたまの春、正しくは「あらたまの」は「年」の枕詞だが、陰
暦の新年と立春とは多くは同時なるが故に、かやうに用語したのである。乍併、かや
うの用語例は上代はもちろん、中世にもあまり見當らぬ。最も古く遡つて忠見集に、
それから、堀河百首に見える。二條流の末に至つては平氣で使ひ出した。さやうな穿
鑿はともかくとして、この歌は、暢びのびとおほらかに出來してをり、時と處とにふさ
はしき佳吟ではある。〇筆者は今年晩春安土城址を訪ひ、菜の花の向うに霞んだ鏡山
を眺めて、藤孝の名吟を想ひ出した。沙門南化の美句を鏤めた漢文安土山記もよろし
いが、三十餘字で片付けた衆妙集の一首も、劣るものでないと感じたのであつた。

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