津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御礼

2021-12-31 10:56:27 | 徒然

 令和三年の当ブログはたぶん皆勤であったと思いますが、友人から段々ネタに詰まっているのがよく判ると言われました。
それは、私自身が感じていることですが、来年は傘寿を迎える事でもあり、量をおさえて中身の濃いものにしていきたいと思います。
一年間お付き合いをいただきまして深く御礼を申上げます。良い新年をお迎えくださいませ。

                                  令和三年大晦日 津々堂 敬白

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十ニ)

2021-12-31 07:16:23 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十ニ)

               もろこしぶね
 われもまた浦傳ひしてこぎとめむ唐船の寄りし湊に

 九州道の記。五月七日條「同じき國長門浦小畑と云湊に、唐船の著て有よしを船人の
うちに語りければ、さらば見物せむとて、遙に舟をよせて、しばし留めて」。幽齋は、
人麿が悲戀の歌を詠んだ高角山を海上から瞥見し、やがて長門國に著いた。歌意は簡
明ながら、典據を持つ。伊勢物語、

 おもほえず袖に湊のさわぐかなもろこし船のよりしばかりに

小畑、長州阿武郡の海村、舊名は埴田といひ、延喜式に年料雑器、長門國茶碗廿口、
徑各五寸とあつて、非常に古い製陶地であつた。歌の中の「唐船」は對島海峡に出漁
する朝鮮の舟が漂着したのかも知れぬし、或は、明國の貿易船が來泊したのかも知れ
ない。いづれにせよ、幽齋が異国船に漕ぎ寄せたといふことが面白いのである。


 くれわたる鐘の御崎をゆく舟に我は忘れずふるさとの夢

 九州道の記。五月廿三日條「赤間關を出て行けるに、雨の名残にや波かぜの荒き故
に、小倉に泊りて、明る夜をこめて舟よそひして、筑州箱崎をさして行に、船人の、
これなむが御崎といふ、昔鐘を求め舟に載てきたり、汀近く成て取落して、今に有
と云。日和のよき時は龍頭などみゆるよしを語る。勅撰名寄には、と云字を書たり
と覺えけるが、鐘にて有べきなどと友達抔に語りける次に、萬葉に、我は忘れずしか
のすべ神と哉覽讀たる事など思ひ出て」。さて右一首をしるし、續いて「かやうに云
戯れ、こぎ行程に、夕浪荒くなりて、やう/\志賀の島に著て、金剛山の宮司の坊に
やどりて」云々。この記事興味多し。二條流の幽齋、なか/\勉強家で、又、強記で、
勅撰名寄の文字を正し、萬葉の歌まで想ひ出し、同舟の友達等(勿論、西征の諸將)
に講義してゐるのである。鐘御崎、筑前國宗像郡の岬角で、響灘に突出してゐる。續
                 博か
西遊記に見える梵鐘傳説を、吉田東吾傳士は「附會ならむ」と斷じ、金御崎が正し
く、昔金を採掘したる所といふやうに述べてゐる。萬葉の歌といふは、巻第七雑歌、

 千磐破金之御崎をすぎぬとも我は忘れじ志賀のすめ神

を指す。幽齋これを本歌に取つて、自分は志賀の神よりも故郷の方が忘れ難い、と
「戯れ」たのである。初句「暮れわたる」は單に時刻を現がすのみでなく、第二句
「鐘」にかかつて、入相の響きをも持たせてゐる。〇新村出博士著「南蠻記」昭和十八年五月刊
の中に「沈鐘の傳説」といふ一偏あり、幽齋の書いた鐘にも言及して、「後人の附會
     〇  〇
にもせよ鐘神と解して置いて、此海中の沈鐘をば宗像志賀の諸將の所爲とすることも
出來よう」云々と述べられたのに、私は賛成する。

 

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