「歌仙幽齋」 選評(二十)
久方の空に積れる白雪や明けゆく不二の高根なるらむ
雑部「禁中に富士の山繪にかきたる御屏風奉りし時」と詞書あり。何年の事とも審
でないが、禁中に物を獻上するといふのだから、功なり名遂げた晩年のことに相違な
い。繪は何人に描かせたかも不明だが、事が事とて、山樂とか興以とか等伯とか松友
とかいふ第一流の巨匠に依頼したことは疑ひない。富嶽を畫題に擇んだのは、幽齋自
身であらねばならぬ、又、右歌は、その屏風への畫賛ではない。一首は解説を要せぬ
ほど、單純に、さうして清々しく詠めてゐる。何等奇抜な見どころもなく、かやうの
歌は古來たくさん有りさうなものだが、探してみると案外にない。
久方の空に積もるとみゆるかな木高き峯の松の白雪 (新千載集)
ほのぼのと明けゆく山の高根より横雲かけてふれる白雲 (新拾遺集)
かやうの次第で、幽齋の一首は倍々光る。
ねがはくば家に傳へむ梓弓もと立つばかり道を正して
雑部「祝」。厳格なる武將の幽齋が、一首に顯現する。希くは、我が武門細川家に、
弓矢の道を正しく傳へ度しと、八幡大菩薩に祈願したのであらう。第四句「もと」
は、弓のもといひ、末といふので、第三句の「梓弓」を受け、同時に。道の根源の意に
用いたのである。黒田如水の歌にも、
末までもためし引かばや梓弓とり傳へつるもとを正して
といふのがある。細川家は幽齋の子に名將忠興出で、その子孫永く熊本藩主として榮
え、明治に至つた。日露戰爭での名譽の戰死を遂げた陸軍中尉長岡護全子も、幽齋の後
裔である。右祈願の歌の如く、細川家の弓矢は正しき道に依つて傳へられたのであつ
た。