津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■年末雑感

2021-12-30 14:29:58 | 徒然

 令和三年も残すところあと一日となった。昨年同様コロナに明けコロナに終る一年だが、都合二年近くになるのに終息が見えない。
菅政権はコロナで振り回され政治力学によって辞任に追い込まれたが、世界の他国に比べれば、彼のコロナ抑え込みの政策は一応の成果を収めての退任ではなかったろうかと私は評価している。
現政権は、オミクロン株の抑え込みに力を注がないと、又厳しい国民の目にさらされるだろう。
散歩の途中良く思うことだが、全く人気がないところを歩いている人が、ちゃんとマスクをして歩かれていたり、車のドライバーがたった一人なのにマスクをされているのを見ると、日本人ってなんて勤勉なのだろうかと思う。
スタンダード・ファッションにそぐわないからとか、自由を叫んでこれらを嫌うお国柄の国々で、猛烈に蔓延しているのを眺めると、「責任」という思考が欠落している。
私は先に、三浦綾子の「われ弱ければー矢嶋楫子伝」をよんだが、その中に「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」という言葉が紹介されていた。
矢嶋楫子は校則などの規律を廃し、盛んにこの言葉を口にしたという。
宗教教育を受けていない無宗教者にも心に響く言葉である。
このオミクロン株の広がりは、キリスト教国である国々の人は、この矢嶋楫子の思いを強く受け止めていただきたいものだ。

 今年私は8年務めた熊本史談会の事務局の勤めを解放された。正式には四月からだが、昨年秋から有志の皆様にご相談をしてやめさせていただくことを決意した。そして現在は確かな組織が出来上がり、会は会長はじめ四人の運営委員によりすばらしい活動の歩みを進めている。もっと早くこの機会が来ていれば、少しは楽にできたのにと思うのは不遜であろうか。
来年四月で発足16年を迎えるが、今後は本当に一兵卒として皆勤しようと思っている。
現在の歩みを見ていると、この会がこの先も確かな足跡を刻むことは間違いないと確信している。

 私事としては、「新・肥後細川藩侍帳」をまとめ上げなければならない。これだけは万難を排してなんとしても仕上げなければならない。
いろいろ企てているが、二番目には「自分史」を書き上げて、子供や孫たちの為に我が家の歴史なりを書き残さなければならない。
私は、来年早々傘寿を迎える。恐ろしいことだがここまで何とか生きてきた。父の早死には兎も角も、母が生きた86歳まで生きればなんとかこの二つの命題をクリヤできると思っている。やり遂げなければいけないというのが本音だが・・。

70代最後の年というのはいささかしんみりさせられる。
健康第一で頑張らなければならないが、甘いもの好きで、お酒も飲むという厄介者だから、来年からこれをどれだけ自制できるかが最大の努力目標である。

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■鮭とか鶴とか・・

2021-12-30 08:47:22 | 徒然

 以前はお正月前に荒巻鮭を買ったりしたものだが、ここ一年ばかり「鮭」を奥方が週一で近くのスーパーから新鮮な片身を購入してくる。これをすぐさま焼いて身をほぐして、これをご飯にのせて食べたり、晩酌のあてにしたりしている。
「鮭」など、50年も前は正月くらいにしか食べられなかったようだ。もっともこれは我が家の経済事情にも依る。 
処で、古い記録を読むと元和・寛永と言った時期は随分寒かったのではないかと思われる。

実は中津あたりで「鮭」がとれたというのだ。
寛永七年十月七日の記録には「当国にてかようの新ハ初物にて候、則ちまず少し料理仕り・・・」とある。
護貞さまは、山国川ではなかろうかと推測しておられる。山国川は支流も多いし当たらずとも遠からずかと思われる。
当時、九州では鮭は到来物が殆どであり、遠く新潟あたりで採れたものが音物として届けられ、三齋が喜んでいる記事も見受けられる。

 その三齊公は盛んに飛来した鶴を鷹匠にとらせて食しているが、今日では考えられない事ではある。
菅豊氏の著書「鷹将軍と鶴の味噌汁」によると、鶴の料理は汁・船場・酒びて・ももげ、わた(臓物)の吸い物・骨のくろ塩(焼き)などであったとされる。汁とは味噌汁であったようだ。
お正月には欠かせないものであったかもしれない。鷹匠がとらえた鶴は殆どか塩漬けにして保存された。
将軍家や幕府の要人、付き合いのある大名や旗本などに音物に使われた。そのように多くの鶴が飛来していた。

 熊本の鶴屋デパートの命名の由来は、この場所が鶴屋敷とよばれた鶴の飛来する所からというから、これとて風景として頭に浮かばない。明治のころまで松の木がそこかしこにあったと祖母に聴いたことがある。
ここで鷹狩りをしたとは思えないから、お正月の頃優雅に熊本の空を鶴が舞っていたのかもしれない。

 又、現在の花園町五丁目あたりに「鶴の茶屋」という地名が残る。ちょうど上熊本駅の北口当たりの場所だが、かって沢村大学(?)の茶屋屋敷があったと言われる。いまではマンションの名前に使われてかっての存在を示している。
鶴由来の場所はまだいろいろあるのかもしれない。

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