「歌仙幽齋」 選評(五)
もろこし
日の本の光を見せてはるかなる唐土までも春や立つらむ
春部「天正二十年入唐の御沙汰ありし年の元旦に」と詞書あり。天正二十年、改元
して文禄元年、幽齋五十九歳。朝鮮征伐の發令は前年九月下旬、諸將の部署を定めた
のは今年正月、諸軍渡海の開始は三月中旬、秀吉京都出發は同月廿六日であつた。か
やうな歴史的の年の元旦に幽齋は右の秀歌を詠じた。曠古の壯擧を背景にして、すば
らしい出來榮えである。「日の本の光をみせて」「唐土までも」聖徳太子が随に遣さ
れた國書の冒頭に「日出づる處の天子、書を、日没する處の天子に致す、恙なきや」
と書かせ給うた古を想はせる。皇國の光が大陸に及ぶと賀頌したので、國運を豫言し
てゐる乎とさへ思ふ。「春や立つらむ」春色は東より來て西漸する。藤原俊成の歌、
今日といへば唐土までも行く春を都にのみと思ひけるかな
は同じく立春を題としても、のどかな大宮人の歌である。又、後の本居宣長、
さしいづるこの日の本の光より高麗唐土も春を知るらむ
は至極堂々たる國祝ぎながら、幽齋に一歩先んじられたとと云つてもよかろう乎。尤
も、宣長のは一層おほらかで、悠揚としてゐる。幽齋のは「光を見せて」と能動的に
しかけてゐる。それは大陸遠征の擧が起り、中心に積極無雙の豐太閤が控へてゐたか
らであらう。詞書「入唐の御沙汰」云々、むろん秀吉が大陸までも出向ふといふこと
である。