むつき い は や そ と せ ことぐさ
正月には五百八十年も在りへむとあふ人ごとの言草にして
春部「慶長五年元旦に」。六十七歳。正月は「お芽出度う、お芽出度う」といふのが、
あふ人ごとの挨拶だと云ふだけの歌ではあるけれども、「五百八十年も在りへむ」の
二句によつて、すつかり新らしくなり、月並ならぬ歌になつてゐる。「彭祖が七百歳」
といふことはあるが、五百八十年と云つたのは、いかなる由來か。古事記に「かれ、
日子穂穂手見の命は高千穂の宮に坐すこと五百八十歳」云々とあり、すなはち彦火火
出見命の御長壽の數を以つて祝した言葉である。それを引いて、室町時代の狂言記に
も五百八十年、萬々年の祝辭を散見する。亂舞狂言を好んだ幽齋として、この言
葉に馴染があつたのだらう。〇この歌とどこか似た古歌一首、慈鐄和尚、
山里にとひくる人の言草はこのすまひこそ羨ましけれ
いにしへも今もかはらぬ世の中に心のたねを殘す言の葉
雑部「慶長五年七月廿七日丹後國籠城せし時古今集證明の狀式部卿智仁親王へ奉る
とて」と詞書あり。六十七歳。幽齋は田邊落城と共に古今傳授、三代集極秘、源氏物
語秘訣などいふ二條家相傳の貴重なる古文書が灰燼とならんことを嘆き、一部は智仁
親王に上り、一部は三條西實條に傳へたのであつた。「古今集證明の狀」とは古今集
秘訣を正にお傳へ致しましたといふ證書のこと。おなじく籠城中、實條へも古今傳授
をしたのであつた。智仁親王は、翌慶長六年にも此の傳授を承けてをられる。按ふ
に、古今傳授の内容は幾つかに分れてゐた故、一回ならず行はれたのであらう。歌
こころ
意、古とても今とても、人間の情に變りはありませぬ世の中に、只今獻上仕りまする
此の古書は、その人間の大切なる心の種を後々までと傳へ殘すところの大和言の葉の
秘訣をしるした寶典でございます、何卒御手許に御留めおき下されて、さらに後々へ
も傳はりますやう、御尊慮を仰ぎ奉ります。「心のたね」古今集序の冒頭「やまと歌
はらぬ」おなじき序の結語「古を仰ぎて今を戀ひざらめかも」。續拾遺集巻第十九釋
教歌の部に、後嵯峨院御製、
古も今もかはらぬ月影を雲の上にてながめてしがな
桂光院智仁親王は、陽光院の第六皇子にましまし、豐臣秀吉の猶子とならせられ、天
正十七年二月、八條宮と號したまふ。秀吉、別墅を洛西桂里に興して、親王ここに御
す。慶長六年三月、二品式部卿に叙任、寛永六年四月七日薨、御壽五十一。衆妙集の
詞書、正しくは「八條宮智仁親王」云々であらねばならぬ。親王は歌道に於いては幽
齋の御門弟であらせられた。