津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十六)

2021-12-21 08:21:26 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(十六)

 吉野山すず吹く秋のかり寝より花ぞ身に沁む木々の下風

 春部「吉野にて人々に代りて」と題せる八首の中。少しく手の込んだ歌である。吉
      ささ
野山では、小竹(篠)を秋風が吹く頃の旅寝よりも、なかなか以つて、櫻花の盛りの時
の方が身に沁みてわびしい、その花を吹く梢の風の下に宿つて。源三位頼政に、

 今宵たれすず吹く風を身にしめて吉野の嶽の月を見るらむ

といふ秀歌あり、新古今集に載つてゐるが、幽齋はそれを本歌に取つた。さうして、
その秋よりも、春の方が更にわびしい、何故かといふに、花を散らす風が身にしむゆ
ゑに、花の散るのが惜しきゆゑに、と大分ひねくつたのである。近體、殊に二條流で
は、かういふ歌を上手と賞めるのである。


 故郷を心かろくも出でやせむ世のありさまの秋の夕ぐれ

 秋部「故郷秋夕」。我が故郷に、じつと怺へてゐもせず、なまじひに、心かろく、
輕率にも出てゆくことになりもしようか、斯かる世間の有様を見かねて寂しくもなる
秋の夕暮には、先づ、かやうな歌意である。これも本歌取で、

 出でていなば心かろしといひやせむ世の有様を人は知らねば

といふ伊勢物語の一首を踏まへたのだ。業平の述懐は、世相のいまはしき堪へかね
て、世外に出て行かうといふのであるのを、幽齋は逆に取つて、山里におちついては
居られぬ、世狀が心がかりなるゆゑ、飛び込んで行かうと云ふのである。ここに、幽
齋の閲歴と此の一首とが關連を持ち、單なる題詠の秋夕では無くなるのだ。

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■最近覚えた俳句

2021-12-21 07:05:24 | 俳句

 「云々」という言葉がある。
文章の最後に「・・・云々」とするが、これは「他人のことばを引いて述べるときに用いる。」とある。
訓は「いう」、音は「うん」だが、「云々」は「うんぬん」であり「うんうん」とは読まない。何故なのか不思議に思うがまだ正解を知らない。
「しかじか」とか「かにもかくにも」とも読むようだが、「うんぬん」で収めるのが妥当なところであろう。

 さて、私は最近歳旦句を調べている中で、芭蕉に「於春春大哉春と云々」というのがあるのを知った。
古文書に親しんでいる私だが、これは読めないなと思い早々に解説を見ると、「ああ春やはる、大いなるかな春とうんぬん」と読んでいる。
句意は「新春が来た、春だ、春だ、春はいいなぁ、」というのである。誠に大らかなことで大いに結構だが、どうやら人様のものを真似をしたものらしい。中国の文學者・米芾(べいふつ)作『孔子賛』に「孔子、孔子、大、哉孔子」というものがある。
「松島やああ松島や松島や」もこの部類かもしれない。

 かって国会答弁で安倍元首相が原稿を丸読みして云々を「でんでん」と読んで物議をかもした。これは論外・・・

            でんでんを「云々かんぬん」言い訳す  津々

 

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