津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■師走のお片付け

2021-12-15 13:16:22 | 徒然

 私のデスクの脇にに、キャスターのついた高さ60㎝程の中段一段の天板のないスチールの本棚を置いている。
分厚いスクラップを10冊ほど並べているが、がっちりしているから、その上に直にいろんな資料重ね置きして山になっている。
足元にはキャスター付きのキャリーを置いていて、これにもいろんな資料が二列にそれぞれ高さ20センチほどが折り重なっていて、どこに何があるのやらさっぱりわからない。
奥方から「お正月前だから少しは御掃除してください」と即されて、今日は朝から片付けを始めてみた。
まずはいらないものを捨てようと試みる。古いA4の封筒などを中身を調べながら確認していると、久しぶりに眺める史料に心を奪われて5分10分はすぐ時間を過ごしてしまう。
こういうのを数回繰り返していると1~2時間が過ぎるのは簡単で、つまりは一向はかどらないということになる。
行方不明であった文書のコピーが出てきては、直す(これ熊本弁=片づける、納める)場所を考えて、しっかりここに置いたことを頭に叩きこむ。
インターネットで見つけプリントアウトしたいろんな論考などがぞろりと顔を出す。ペーパーレスの時代などというが、古い人間はやはり「紙資料」が大事物である。これらを一所にまとめていると、またぞろ小山ができた。
パンチングファイルにまとめれば良いのだが、穴があいて文字が読めなくなるのがいやできたが、そんなことも行っていられない。あとでバッサリ穴をあけてとじ込むことにした。
古い熊本史談会の配布資料がたくさん出てきて、これは一部だけ史談会資料に入れ込み後はメモ用紙の箱に入れる。
各地の観光パンフや美術館パンフなども処分し難く、またいろんな方からお送りいただいた史料も顔を見せしばし当時に想いを馳せて見入ってしまう。
どうやら、キャリーの方に綺麗に積み直したということで、お茶を濁した。
なんとか午前中にはかたずけて、昼から散歩に出ようと思っている。

 実は最近奥方が引っ越したいと恐ろしいことを言い出した。地震後緊急避難的に引っ越してきた仮の屋ではあるが、すっかり住み着いてしまい、今更又この本を梱包して外に出すなど、80前の爺様にはとてもできることではない。
「俺が死んでからにしてくれ」と言っているが、どうやら捨てられる運命になりそうな資料の山を眺めると、何とも切ないことではある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十二)

2021-12-15 08:56:10 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(十二)

一説。藤原公國卿早世ありて其子實條卿若かりしかば、和歌の口傳を幽齋に傳へられ
けり。後に幽齋實條卿を田邊の城に迎へとりて養育し、悉く授けられしに、古今集の
説は未傳へられざる中に朝鮮征伐の起りしかば、弓箭取る身は討死の程計り難し、と
て古今傳授の事書きたる書の箱を烏丸大納言光廣卿へ贈られ、預け参らする間、朝鮮
に渡り討死せば實條卿へ給はり候へ、とて添へられし歌、

 人の國ひくや八島も治まりてふたたび返せ和歌の浦浪

 もしほ草かきあつめたる跡とめて昔にかへせ和歌の浦浪

光廣卿の返に、

 萬代をちかひし龜の鏡しれいかでかあけむ浦島が筥

其後秀吉遺言して、豊後杵築の男忠興に換へ與へられしかば、光廣卿より筥を
返すとて、

 あけてみぬかひもありけり玉手箱ふたたびかへる浦島の浪

幽齋田邊の城を守られし時、勅命により三條大納言實條卿へ附し傳へられしに、一首
の歌あり、

 古も今もかはらぬ世の中に心のたねを殘す言の葉

以上、常山紀談の記すところ、その儘には信用しかねる點もある。諸本によつて、傳
ふるところ少々づつ違ふ。丹州三家物語・四方の鏡・鹽尻などを參照すると宜しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・2

2021-12-15 06:55:48 | 小川研次氏論考

■第四章 明石掃部

          五、田中氏

田中氏の出自は近江国高嶋郡田中村(高島郡安曇町)という説(『寛政重修諸家譜』巻第一三六七)や、浅井郡三川(東浅井郡虎姫町三川)とする説がある。
「三川」説は慶長九年(一六〇四)に吉政が三潴郡の大善寺玉垂宮(久留米市大善寺宮本)に寄進した梵鐘の銘文に「生国江州浅井郡宮部縣子也」とあり、出生地は宮部縣に隣接する三川村とされている。(『筑後国主田中吉政・忠政』)

さて、『武家事紀』に登場する「掃部聟田中長門守」は一体何者であろう。

一万石の知行から家老格の重臣と考えられるが、「田中家臣知行割帳」(『筑後将士軍談』)にも見えない。現在のところ、史料を見出していないが、関ヶ原の戦い後の明石掃部の行動から、田中家との関わりを推考してみよう。

秋月領の布教は一五六九年にイエズス会修道士ルイス・アルメイダにより始まった。藩主秋月種実はキリスト教に対して理解を示していた。一五八二年、念願の教会が建てられることになるのだが、「殿は聖堂を城の下に築くことを望み」、身内から土地や建材を提供させた。(ルイス・フロイス『一五八二年の日本年報』) 

この様なことから、秋月には多くのキリシタンがいた。
一六〇〇年、黒田官兵衛の弟直之がキリシタン家臣と共に秋月に入部するが、一六〇四年にレジデンシア(司祭館)、一六〇七年に聖堂を建立し、「新築は惣右衛門(直之)ミゲルが費用を負担して」いた。(『一六〇七年度イエズス会日本年報』) 

二年間で五、六千人も受洗者がいたという。(『日本切支丹宗門史』一六一四年の項)

禁教令前なので、掃部は下座郡小田村(朝倉市)から堂々と家族らと教会に通っていたことであろう。
秋月で庇護者であった黒田直之は慶長十四年(一六〇九)二月に没する。同じくキリシタンの嫡子直基も二年後に没している。
掃部が筑前国から筑後国へ移ったのは、直之没後直後と見る。
筑後国藩主田中吉政はイエズス会の宣教師に「私は仏教徒であるが、キリシタンの親しい友であり、多くのキリシタンを召抱えてきており、伴天連方と懇意になりたい。」と柳川に修道院と教会建築のための地所を提供していた。(一六〇一、一六〇二年日本の諸事『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

また、自ら家臣とともに教会に出向いて、ミサと説教を聞いて、司祭のキリシタンへの優遇希望に対して「そのようにしよう。その点についてご安心ください。私、ならびに私の領国にお望みのことはいかなることでもします。私は教会と堅い親交を結びたい」と返事した。(一六〇六、一六〇七年日本の諸事『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

しかし、キリスト教に理解を示した吉政であったが、洗礼を受けることはなかった。(『キリシタン研究』第二十四輯)

小田村にいた掃部は当然、柳川の田中吉政父子と交流があったことだろう。
この時期、掃部の行動範囲はキリシタンが多くいたとされる小田、秋月から田中藩領の柳川、竹野郡田主丸、太刀洗、山本郡木塚(久留米市善導寺)と考えられる。潜伏先は山本郡と推定され、詳しくは後述する。

吉政も黒田直之と同じ慶長十四年(一六〇九)二月に没し、柳川の真教寺(現在の真勝寺)に眠る。墓は本堂の床下にあり、あたかも聖職者を弔うキリスト教会のようである。
父の遺志を継いだ忠政はキリシタンを擁護した。禁教令後の一六一二年に「筑後の柳河には、司祭と修士が各々一人いて、伝道に当たっていたが、この年二百人の洗礼があった。奉行達は捜索をしそうに思われたが、間もなく目をつぶった。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

キリシタンを擁護する忠政は掃部と急接近することになる。
さて、「田中長門守」の出自は不明であるが、細川家中に「田中家」所縁のミステリアスな人物がいる。
「田中氏次:兵庫助。江浦城主。のち兄吉政との不和により退去、豊前で細川忠興に千石で仕える。」(『日本版ウィキペディア』)
信憑性に疑問があるが、他にも散見していることから通説となっているのだろうか。しかし、「田中吉政・忠政」の先行研究は多々あるが、依拠する史料が少ないのか、「氏次」に関しては、ほぼ皆無である。
細川家において氏次は田中与左衛門(兵庫、一六四九年没)とされ鉄砲頭千石で仕え(「於豊前小倉御侍帳」)、加増千石となり二千石番頭となった。忠利時代には国惣奉行となる重臣である。
「兵庫」は寛永四年(一六二七)正月元旦「細川日帳」に藩主忠利が「(浅山)清右衛門・與左衛門も、明日名をかはり可申旨、」と「清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成」(『福岡県史・近世編・細川小倉藩(一)』)と命じたことから、與左衛門は「田中兵庫」と名乗ることになった。

さて、「田中氏次」なる人物を次の三点から見てみよう。「兵庫助」「江浦城主」「兄吉政との不和」である。
まず、筑後の「兵庫助」について、「田中家臣知行割帳」(『筑後将士軍談』)に「三千百二十石・田中兵庫」とある。
「割帳」の成立は、大坂夏の陣直前に殺害された宮川大炊や田中長門守の名がないことから陣の後(元和元年五月)と考えられ、また、「(知行割帳に)支城に関する言及も見られず、一国一城令の出された大阪の陣以降のものである可能性が高い。」(中野等『筑後国主田中吉政・忠政』)と論考されている。
小倉藩の「兵庫」こと「田中与左衛門」であるが、慶長十九年(一六一四)九月、台風により細川藩江戸屋敷が破損した時に、修理を「田中与左衛門ニ申付」(「部分御旧記」『細川家文書による近世初期江戸屋敷の研究』))とあり、作事奉行だったのか。また、同年十一月の大阪冬の陣前だが、小倉藩の「大阪御陣御武具并御人数下しらへ(調べ)」(『綿考輯録巻二十七』)の「三番、藪内匠、加賀山隼人組」に「田仲与左衛門(兵庫亮)」とある。同組にはともに惣奉行となる「浅山清右衛門(修理亮)」がおり、「初め二百石」(新・肥後細川藩侍帳)とあり、与左衛門も同格とみる。
つまり、与左衛門は大阪冬の陣前から細川藩に仕えていたことから筑後の「割帳」にある「兵庫」は別人となる。(あくまで「割帳」を陣後成立として)

次は「江浦城主」についてだが、柳川城支城江浦城(みやま市高田町江浦町)は「田中吉政の代其の臣田中河内守城番たり」(『旧柳川藩志』)とあり、家臣で七千石を拝領している。(『筑後将士軍談』)

では、「田中氏次兵庫助」と「河内守」は同一人物であろうか。
参考になるのは同じく赤司城(久留米市北野町赤司)を預かった田中左馬尉清政(一万三千石)だが、吉政の実弟(庶兄の説あり)とされる。(『筑後国主田中吉政・忠政』) しかし、河内守の知行高(七千石)と「家臣」とされることから「河内守」は弟ではない。この時代、藩主が家臣に苗字を与えることは常であった。
また、「兄吉政との不和」についても、慶長九年(一六〇九)十月二十五日付けの寄進状(三潴郡東照寺宛)に「田中河内守」の名があるが、(『筑後国主田中吉政・忠政』) 吉政は同年二月十八日(『寛政重修諸家譜』)に既に没していることから、「不和」は成立せず、「兵庫助」と「河内守」は同一人物ではないとなる。
つまり、小倉藩で仕えた「兵庫」は「江浦城主田中河内守」と別人と考えた方がよさそうだ。

「通説」に従えば一六〇九年以前に「田中氏次(与左衛門)」は親子ほど歳の差のある「兄吉政」と不和になり、浪人後に細川家に仕えたとなるが、しかし、いきなり千石の鉄砲頭とは考え難く、大阪冬の陣直以前(一六一四年)に二百石(推測)で召し出されたと考えるのが妥当であろう。江戸屋敷の作事を仰せ付けられていることから、江戸詰めとも考えられる。

時代は下り、寛永九年(一六三二)十二月、熊本城に入った忠利は田中兵庫・宗像清兵衛・牧丞太夫に国惣奉行を任命しているが、二年後(一六三四)には宗像と牧を罷免してキリシタン河喜多五郎右衛門を当てた。(『熊本藩年表稿』) 
寛永十二年(一六三五)十一月四日、小笠原玄也一家(玄也の父少斎はガラシャ介錯後自害、兄は細川家重臣小笠原備前、小笠原宮内少輔)がキリシタン容疑で捕縛される。これは報奨金欲しさによる農民が長崎奉行に訴えたことによる。忠利が小倉時代から擁護していた玄也らのことが幕府に知れたのである。忠利は何度も玄也に改宗を懇願するが、頑なに拒否する玄也になす術がなかった。親友である長崎奉行榊原職直の働きも虚しく、幕府から極刑の通達が届いた。
玄也らは処刑命令が出るまでの五十日間、座敷牢にいたのだが、田中兵庫の屋敷であった。忠利の配慮としか考えられない。玄也らは形見送りと十五通の遺書を残す。(『新熊本市史史料編第三巻』)
しかし、五十日間の猶予は忠利、職直の意を汲んだ幕府側の配慮でもあったともいえよう。

ここからは推考となるが、一六一七年のイエズス会コーロス徴収文書(小倉編・一六一七年)の信徒代表に松野半斎、小笠原玄也、加賀山隼人、清田志門らと並んで「アンドレ田中」とある。田中兵庫である確証はないのだが、可能性はある。
二ノ丸塩屋町の兵庫邸(現・熊本中央郵便局)に隣接しているのは、後述する大友氏系の清田石見邸(現・熊本県立第一高校)であることも気になる。(『新熊本市史』地図編二十) 

玄也の妻みや(加賀山隼人長女)の遺言の行に歌がある。
「いつもきく物とや人の思ふらん、命つつむる入あいのかね」(『新熊本市史』史料編第三巻、近世』)
(いつも聞けるものと人は思っているが、限りある命を数えている入相の鐘)
夕刻、牢座敷に聞こえて来る鐘の音は近くにある玄学寺・正法院(上鍛冶屋町)であろう。

玄也一家は十二月二十三日に禅定院(現禅定寺・中央区横手)で処刑されるのだが、この寺が田中家の菩提寺になっていることも縁を感じる。
兵庫は嗣子がいなくて、佐久間家から忠助を養子とし、島原の乱で一番乗りの武功を挙げる田中左兵衛とされる。
しかし、上述の「ウィキペディア」に「田中一族には吉政の弟に田中兵庫助氏次がおり、この系統が肥後細川藩士として続いていたが、吉政とは不和だったためか、柳川の田中本家断絶の折にも吉興に嗣子がない折にも養子を送ることはしていない。」とあるが、兵庫には嗣子がいないので齟齬がある。やはり疑念が残るが、ここで止まるわけにはいかないので、ミステリアスな人物として先に進むことにする。
しかし、著者は「掃部の聟」である「田中長門守」と「田中兵庫」が深い関係があるようにみえる。

           六、坂井太郎兵衛

坂井太郎兵衛は筑後の山本郡木塚(きづか・現在の久留米市善導寺木塚)の富裕な庄屋であり、ドミニコ会士の十二年間(一六〇五〜十七)もの宿主であった。屋敷内に教会を建てていたが、禁教令後に破却された後は一部屋を礼拝堂とし「ロザリオの聖母」と命名していた。(『日本キリシタン教会史』) 

「田中長門守」発覚から、さらに幕府による捜査が進み掃部潜伏先が判明することになる。
『日本切支丹宗門史』の一六一七年の項に記されている。

「筑後では、よく信仰の中に育ち、熱烈なキリシタンのパウロ・サカイ・タロビョーエ(坂井太郎兵衛)が、家にヨハネ明石掃部を宿したことを弁明するために江戸の政庁に呼び出された。彼は、その理由を述べて柳河に帰ったが、着早々、同国の奉行の一人イシザキ・ワカサドノ(石崎若狭殿)の前に呼び出された。イシザキは彼に棄教せよと厳命した。彼はこれを拒絶して投獄され、財産は没収された。」
太郎兵衛は一六一七年七月頃に江戸に行き、八月に投獄されたと考えられる。しかし、「宿主パウロ・サカイ」の掃部隠匿について若干異なる二つのイエズス会の報告書の一部を紹介する。

「パウロ・サカイ太郎兵衛という名の一人のキリシタンがいた。この人は、この国に吹き荒れていた迫害の嵐に追われ、彼が命じられていた江戸勤番を解かれ国へと戻った。この国奉行の一人であるイシザキ若狭殿は改めてこの人を呼び、日本国の将軍と筑後の国の領主が定めた掟に従い、イエズスの教えを棄てる様に促した。」(「カミロ・コンスタンツォのイエズス会総長宛、一六一八年・日本年報」)

「そのころ彼は、明石掃部ジョアンというキリシタン武士を自分の家に匿ったということで、国王(将軍)から訴えられた。内府(家康)はこの明石掃部を死刑に処するために、捕らえようとしていたのである。というのは、内府が先年、秀頼に対して起こした二度の戦争(大阪冬、夏の陣)、また、以前、秀頼がまだ幼かったとき、その後見人たちが内府に対して行った戦争(関ヶ原の戦い)のとき、この武士は、名望のある武将として、常に内府に反対の立場をとったからである。しかし、この訴えは偽りで、実際には明石掃部を自分の家に泊めたことはなかったので、彼は筑後の国から江戸へ連行されたとき、たいへん軽い気持ちで出掛けていった。そして、前記の理由で無実なので、その訴えから逃れることはできるだろうが、キリシタンであるという訴えからは逃れ得ないだろうと思っていた。そうなれば、自分の逮捕は彼の非常に望んでいた殉教に道を開くだろう。と考えていた。だが、彼は両方の訴えについて、無罪の判決を受けた。」(「クリストヴァン・フェレイラのイエズス会総長宛、一六一九年一月三〇日・日本年報」

なぜ、カミロ・コンスタンツォは掃部の件を記さなかったのだろうか。カミロは禁教令による日本追放の一六一四年から二十一年の再入国までマカオにいた。つまり、この報告書はマカオで書かれていたことになる。長崎からの情報はフェレイラと同じはずである。
日本語の誤訳も考えられるが、太郎兵衛の捕縛命令をした石崎若狭守の名もあることから考えにくい。

カミロは一六一一年の末まで、細川忠興から追放されるまで四年間、小倉で活動していたこともあった。
また、後述するが一六一四年の日本追放の時、明石掃部の長男小三郎が同船し、マカオに一緒にいたと考えられる。
敢えて掃部の名を消し、太郎兵衛を「江戸勤番」としたのかも知れない。

一方、長崎で殉教調査を終えたフェレイラは「明石掃部を泊めていない」とし、詳細に報告している。
中立であった外交官レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』に詳細な記録の方を記したと思われる。しかし、当事者であるドミニコ会の坂井太郎兵衛と明石掃部に関する報告は見当たらない。当時、対立していたイエズス会の太郎兵衛隠匿否定説に意図を感じる。つまり、ドミニコ会があえて隠した真実である証拠ではなかろうか。しかし、それは「明石掃部」ではなく「明石内記」の可能性がある。

太郎兵衛は掃部を匿っていたとの疑義から、弁明するために江戸に向かう。
これも推考だが、訴人吉興の情報かも知れない。久留米は吉政の次男吉信が支城城主として入っていたが、慶長十一年(一六〇六)に死去し、吉興が移ったとしている。(「筑後之国やなかわにて世間とりさた申事」『秀吉を支えた武将田中吉政』) また、元和三年(一六一七)頃、公事沙汰の結果か不明だが、吉興は幕命により生葉・竹野と山本半郡(三万石)を分知されたとある。(『久留米市史』)

吉興が領地内での掃部や太郎兵衛らの動向を把握することは容易であったことだろう。

さて、太郎兵衛はいつからキリシタンだろう。まず考えられるのは、かつての藩主小早川秀包(ひでかね)時代である。毛利元就の九男であるが、兄である小早川隆景の養子であった。天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州国分により筑後三郡を領することになった秀包は妻マセンシア(大友宗麟の娘桂姫)と共に敬虔なキリシタンであった。

「坂井太郎兵衛パウロは筑前の旧家坂井氏の出である。」(チースリク『秋月のキリシタン』)とあるが、萩出身の毛利家臣であったという説もある。(『長防切支丹誌』) そうであれば、秀包の家臣だったと考えられ、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い後に西軍だった秀包が去った後に残り、庄屋となったことになる。

この時、久留米城にいた秀包の妻マセンシアと子どもらと宣教師達を助けたのが、シメオン黒田官兵衛である。(『日本切支丹宗門史』) 子どもらには養女がいた。マセンシアの姉の子である。後の宗像大社大宮司宗像氏貞の養子となる益田景祥(かげよし)の後室となる。(「新発見の豊臣秀吉文書と肥後宗像家」『沖ノ島研究』第六号)

関ヶ原の戦い直前のことである。

「シモン(秀包)とマセンシアは当初、寄付したこと以外に、数々の恩恵をかの修道院に与え、司祭居住用の家屋を新たに設け、司祭には荷重であった教会を建てた。」(フェルナン・ゲレイロ編『イエズス会年報集』一五九九―一六〇一年、日本諸国記)

一六〇〇年当初、久留米城下に教会が建てられたが、現在の久留米市役所に位置し「両替町遺跡」として十字架紋瓦や遺構が見つかっている。
また、「領内のキリシタンは別に教会を建てた。」(同上)とあり、この教会は善道寺木塚に居していた坂井太郎兵衛が敷地に建てた教会と考えられる。

「パウロ・サカイ太郎兵衛と言う名の一人のキリシタンがいた。この人は非常に熱心なキリシタンで、彼がキリシタンである事は異教徒の間でも良く知られていた。」(カミロ・コンスタンツォ『一六一八年度イエズス会日本年報』)

しかし、「マトス神父の回想録」に「久留米において秀包が去ってのち、新左衛門ディオゴというキリシタンが家の裏に神父が泊まるための藁葺きの家を建てた。神父はキリシタンの告解を聴くためにそこへ行った時、毎年一ヶ月前後そこに泊まった。」(『キリシタン研究』第二十四輯) とあることも留意したい。

太郎兵衛は筑後キリシタンの柱石的存在であった。イエズス会により受洗したが、後に『ロザリヨ記録』の著者であるドミニコ会士ユアン・デ・ルエダを教会に招き、親交を深め、会士の宿主となり、ロザリオ会の組親となっていた。(『日本キリシタン教会史』) 

慶長十八年十二月二十二日(一六一四年一月三十一日)に江戸幕府による禁教令が発令され、宣教師らは一六一四年十一月七日、八日に長崎の福田湊からマニラ、マカオへ追放された。

「内府(家康)がすべての神父を国外追放に命じた迫害が起こって数ヶ月後、パウロ(太郎兵衛)はルエダ神父の宿主をしていた。五人(家族)とも聖ロザリオ会員であった。」(『日本切支丹宗門史』)

また、ルエダは禁教令下の一六一五年から一六一六年七月までの間に小倉に入ったと思われる。(『ロザリヨ記録』) 

そして宿主になった聖ロザリオ会員のシモン清田朴斎(正成・鎮忠弟)は一六二〇年、家族と共に忠興の命令により処刑された。(『日本切支丹宗門史』)

元和三年(一六一七)の『コーロス徴収文書』の筑後国の段に「坂井右衛門三郎」の名があり、太郎兵衛の身内と考えられる。太郎兵衛は翌年の一六一八年に処刑されるが、この年は獄中にいたと考えられる。信仰を固守するために、太郎兵衛に代わり右衛門三郎が署名したのだろう。
前述のように、信仰に生きる掃部らは当然、筑後国でドミニコ会士司祭のルエダやオルファネルと出会っていることは容易に想像できる。
最後の証人である太郎兵衛は江戸で尋問を受けるが、無罪となり国に戻る。しかし、幕府の監視は続いていたと思われる。つまり、泳がせて「明石狩り」である。

田中忠政は帰国直後の太郎兵衛捕縛を石崎若狭介秀清に命じる。若狭は三六五〇石を拝していた家老である。(「田中家臣知行割帳」)
幕府の監視もあったが、明石一族と領内のキリシタンを保護するための策だったかも知れない。

「殿(忠政)がいかに転宗を命じても、我々の敵、よそ者ともいうべき友人、親戚が説得しても、それは霊魂を亡ぼそうとしたがゆえに、彼は転ぶことも信仰を棄てることもよくしなかったからである。このパウロ(太郎兵衛)は立派なキリシタンであった。それゆえ、殿は転宗させるために彼の逮捕を命じたのである。」(『日本キリシタン教会史』)

信仰を固守した太郎兵衛は八ヶ月間、牢獄にいたが、一六一八年四月十三日に柳川の刑場「斬られ場」(柳川市水橋町)で処刑されたのである。(『日本キリシタン教会史』)

キリシタンを擁護していた忠政であったが、幕府の監視もあることから苦渋の決断であっただろう。しかし、元和六年(一六二〇)八月七日(新九月三日)に忠政は嗣子の無いまま没し、田中家は改易となった。豊臣恩顧の忠政だったが、キリシタン政策に危機感を持った徳川方の処断とも言えよう。
実はオルファネルと小倉藩の人物が繋がることにより、奇妙な相関図が浮かび上がる。

           七、久芳又左衛門(くばまたざえもん)

一六一八年二月二十五日(旧元和四年二月一日)、「ヨハネ・クバ・マタザエモン」は細川忠興により小倉で斬首された。中津城にいた忠利の家老であった。処刑された者は二月二十五日から三月一日までの五日間で二十五人、二歳と六歳の子供もいた。七月には十二人と、この年だけでも三十七人(別に一人牢獄にて衰弱死)もキリシタンという名目で処刑された。(『日本切支丹宗門史』、バルトリ「イエズス会史」抜粋一六一八年補遣『一六.七世紀イエズス会日本報告集第二期第二集』) 

まさに「小倉の大殉教」である。同日、又左衛門と共に処刑された「トマス・クチハシ・ゼンエモン」(櫛橋善右衛門)も忠利の家臣と思われる。
翌日、両者の子が中津で斬首され、三月一日には志賀ビンセンテ(市左衛門)も含む七人が倒磔(さかさはりつけ)にされた。中津で処刑された者は三日間で十二人にも上る。忠利の側近を中心に処刑していることから、まさに忠興の忠利への強い意図を感じる。

「殺害の理由を告げずに謀殺される者もいた。」(オルファネル『日本キリシタン教会史』) 

忠興は何故、この年に大量殺戮を行なったのだろうか。
死刑執行は前年の元和三年(一六一七)に決定されたと考えられることから、まず、イエズス会日本管区長マテウス・コーロスの信徒宣誓書である『コーロス徴収文書』が、この年の八月(旧七月)に成立していたことに注目する。
この秘密文書の忠興側への漏洩の可能性である。

署名した四十八名に、小倉には重臣・加賀山隼人、松野半斎(親盛・大友宗麟三男)、松野右京(正照・大友義統三男、半斎の養子)、清田志門(朴斎)、加賀山主馬、小笠原玄也などがおり(隼人は一六一九年、志門は一六二〇年、玄也は一六三六年に殉教)、 中津には処刑された「久芳寿庵」「櫛橋理庵」(トマスではないが同一人物とみえる)「志賀ビセンテ」もいる。これらの多くの家臣は慶長十九年(一六一四)に忠興による転宗命令に従い、転び証文を出していたが、忠興にとっては驚愕の事実であったことだろう。しかし、多くの重臣側近らは処刑から外されていることから、忠利との関係者を狙い撃ちした可能性がある。

次に忠興は先述した筑後国の田中家公事沙汰騒動に非常に関心を持っており、その後も元和三年(一六一七)十一月十八日に「田中筑後身上の儀、さのミ替事有間敷候事」、また、元和四年(一六一八)六月二日にも「肥後の事、田中事、さしたる儀も之在る間敷と存じ候事」と田中忠政の身上について忠利に警告文の如く執拗に書状を送っている。「肥後の事」は後年改易される加藤忠広を指している。(『秀吉を支えた武将田中吉政』)
これはまるで「お前も田中のようなことをしたら同じ目にあうぞ」とも取れる。
つまり、忠利のキリシタンの擁護への警告である。
コーロス文書の漏洩、キリシタンに関する情報は忠興の内通者からもたらされていたのだろう。

「小倉の大殉教」は嫡子忠利の改心(改宗)への警告でもある。忠利は文禄四年(一五九五)に母ガラシャにより、忠興に秘して兄興秋と共に洗礼を受けていた。(ルイス・フロイス「イエズス会一五九五年度年報」)

忠興にとっては御家存続に関わる重大なことであり、当然の決断である。しかし、キリシタン忠利の心中如何に、親子の確執はここから始まったのかも知れない。さて、忠利の家老久芳又左衛門であるが、『日本切支丹宗門史』の「クバ」は「久保」でなく「久芳」である。

細川家『切支丹類族帳』に「故越中守召仕古切支丹久芳又左衛門系」とあり、子孫四代までも監視体制の対象となっていた。(『肥後切支丹史』)

『萩藩閥閲録』によると、久芳氏は毛利氏の家臣団に見られるが、安芸国賀茂郡久芳(東広島市福富町久芳)を本拠地としていた。又左衛門はこの一族であろうか。
先述の坂井太郎兵衛も毛利家臣であったとあり、坂井氏は「戸野郷」を知行としていた。現在の広島市河内町戸野で、久芳村と隣接していたのである。
二人は繋がっていた可能性はある。では、いつから又左衛門は細川家家臣となったのだろうか。

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦い後、敗軍の将となった西軍の総大将毛利輝元は周防・長門二国への減封となった。この時、加増され豊前に入った細川家に毛利・小早川旧家臣が召抱えられた。乃美(のみ)新四郎景尚(浦主水正景嘉)、包久内蔵丞(景真)、椋梨半兵衛らがいる。又、村上水軍庶流の能島村上系の八郎左衛門(景広)、次郎兵衛、来島村上系の景房、少左衛門が細川家水軍充実のために仕えた。(光成準治著『小早川隆景・秀秋』)

乃美四郎景尚(浦主水正景嘉)は小早川隆景の率いる小早川水軍の舟大将乃美宗勝(浦宗勝)の子である。ちなみに妻は村上景広の娘である。(『萩藩諸家系譜』)

また、他に「東右近介」というものが「卒然として豊前に趣、細川忠興に仕えた。」とあり、「右近介は村上隆重(景広の父)の長男で吉種といった。彼は妾腹の子であったので、弟の景広が正嫡として、芸州笹岡城主を継ぎ、吉種は東家を継いだ。」(『村上水軍史考』)とある。つまり、兄弟ともに細川家に仕えたことになる。
興味深い事に忠興寵臣の「村上八郎左衛門(景広)」がキリシタンであったことだ。『花岡興輝著作選集』)
天正十四年(一五八六)、羽柴秀吉の九州平定が始まるが、この時の軍監がキリシタン黒田官兵衛であった。毛利輝元や小早川隆景らにキリスト教布教の協力を取り付け、下関に教会を建てるに至ることになる。
官兵衛と共に下関にいたのが、日本イエズス会副管区長ガスパル・コエリョとルイス・フロイスである(『日本史』十一・下関で第一巻を書き上げている)

「官兵衛殿は、下関から二里距たったところにある小倉という、敵の城を包囲するために同所を出発した。彼は通常、戦場においては日本人で説教ができる修道士を一、二名手元に留め、昼夜、機会あるごとに兵士たちに説教を聴聞させ、十分に教理を理解し準備された者は、我らがいる下関に遣わして洗礼を受けさせた。」(同上)

この戦場にて「日本には、往昔の国主たちの特許状によって、当初から、全海賊の最高指揮官をもって任ずる二人の貴人がいる。(中略) 彼らの一人は能島殿であり、他の一人は来島殿と称し、官兵衛殿に伴ってこの戦に従っている。官兵衛殿はこの人にキリシタンの教義をすべて聴聞させた。彼は教えを理解すると、洗礼を受けるため、彼とともに聴聞した幾人かの家臣とともに戦場から下関に向かった。」(同上)とあり、「受洗した来島殿」が司祭を安全に航海させたのである。この時の能島村上当主だった村上元吉は関ヶ原の戦いで戦死したので、受洗の確認はできないが、景広らと共にキリシタンになっていたことだろう。
小早川秀包(ひでかね)や熊谷元直も受洗していて、久芳又左衛門も同時期にキリシタンとなったと考えられる。
しかし、慶長十九年(一六一四)の忠興転宗命令に従い、景広と又左衛門は棄教していた。(『花岡興輝著作選集』) 
忠利が江戸から中津城に入ったのは慶長十一年(一六〇六)十二月である。又左衛門はそこから家老職についたのだろう。

余談だが、毛利旧臣から細川藩に仕えたキリシタンがいる。「仁保惣兵衛」である。惣兵衛も景広と又左衛門と同時に棄教している。「輝元公御代分限帳」(『下関市史 資料編一』))の「御馬廻衆」に「仁保惣兵衛 百九十八石九斗八升一合」とあり、同一人物であろう。惣兵衛は寛永元年(一六二四)八月十日『細川日帳』に代官に関する記録がある。
仁保本家筋にあたる仁保隆慰(たかやす)や元豊の系図には見えないが庶家と思われる。
また一族と見られるが「仁保太兵衛」という変わった経歴の家臣がいる。
太兵衛は幼少期には彦山座主忠宥のもとで育てられ、元和二年(一六一六)に二十七歳の時に召抱えられた。元和九年(一六二三)には惣奉行となっている。(『肥後細川藩拾遺』)
出自は『細川家家臣略系譜』には毛利期の門司城番だった隆慰(常陸介)の嫡男元豊(右衛門大夫)の系列とされているが、『萩藩諸家系譜』には、元豊の男子は元智一人だけである。しかしながら、忠興から重用されていることから、一角の人物であったのだろう。縁者に細川忠利に殉死する宗像加兵衛・吉大夫兄弟がいる。(『綿考輯録・巻五十二』)
現在、英彦山神宮の宝物として「華鬘(けまん)仁保太兵衛所納」が現存する。

さて、久芳又左衛門だが、ドミニコ会士ハシント・オルファネル神父の貴重な記録が伝わる。

「ヨハネ(久芳)は既に、一六一四年に不幸にも棄教していた。一六一五年、彼がオルファネル神父を厚遇するや、神父は再び彼を天主に導いた。」(『日本切支丹宗門史』) 

前述の通り、忠興の命により又左衛門は棄教していたのだが、翌年にオルファネル神父によりキリシタンに立ち返ったのである。神父自身による報告書によると「又左衛門は(私)が豊前国を通過したときに(私を)中津の市(まち)の邸に泊めた人物であった。」(『日本キリシタン教会史』)とあり、神父が又左衛門の家に泊まっていたのは一六一五年の初夏と考えられる。

慶長二十年(一六一五)五月七日(新六月三日)は大阪の夏の陣の終結した日であるが、陣の後と考える。
一六一五年四月初旬、長崎にいたオルファネルはその年の十二月初旬まで筑後、豊前、豊後、日向に長途の巡歴をしていたのだ。(『日本キリシタン教会史』)

ドミニコ会は一六〇九年に長崎で信徒組織ロザリオ(聖マリアに起因)の組を結成し、禁教令後に顕著に飛躍した。(五野井隆史『イエズス会士によるキリスト教の宣教と慈悲の組』) 特に棄教した多くの信徒がキリシタンに立ち返ったのである。このことにより聖マリア信仰が育んでいくことになる。
一六二二年の「元和の大殉教」では、五十五人処刑されたが、宣教師二十一人(オルファネル含)を除いた三十四人の内二十一人がロザリオの組員であったことが物語っている。

オルファネルは筑後のロザリオ組頭坂井太郎兵衛邸に滞在した後に秋月街道の八丁峠を越え田川郡から企救郡小倉を目指したと思われる。しかし、中津に宿泊することになるが、その時の状況を詳細に伝えている。

「特に豊前国では殿(細川忠興)が悪魔、キリスト教に対する心底からの敵、怒りっぽい狂人じみた人物であったので、キリシタンたちは怯え慄いていた。したがって、キリシタンはパードレ(神父・オルファネル)に会いに行くのが至難の業だと感じていた。しかし、それにもかかわらず、ごく密かに、時ならぬ頃であったが、会いに行った。このような障害があったにせよ、同パードレは多数のキリシタンがいることを知ったので、殿の居住地・小倉の市(まち)へ辿り着きたいと思った。
このためにパードレは小倉の地にいる旨をキリシタンに知らせるため一人の男を派遣したが、小倉の情勢は極めて厳しかった。とくに前述したドン・ディエゴ隼人(加賀山隼人)は、今は来るべき時期ではないと知らせてきたので、パードレは他の地を通って同豊前国の中津の市へ行った。しかし、市のキリシタンは物凄い恐怖を感じていたので、敢えて泊めてくれる者は居ないのではないかと懸念したが、市に住んでいた殿の長男(三男忠利だが、嫡男の意味)の代理者(家老)たる一人の武士が、喜んで大胆にも宿を提供した。彼はパードレが既に到着し、市の外れで待っていることを知ると、「ようこそお越し下された。夜になったらパードレ様をご案内するこの者と共に市にお入り下さい」と告げる使者を送った。

この武士の名はユアン(ジョアン)又左衛門といい、パードレが彼の屋敷に数日滞在した時、告解のためにごく密かに何人かのキリシタンを招くと共に、彼自身も妻も告解をし、パードレとの別れに際しては一日の旅程に伴をつけた。」(同上)

この時、加賀山隼人が小倉におり、忠利も中津にいたと考えられる。実際、忠利の軍勢は大阪夏の陣には参戦していない。下関で陣を備えて大阪に向かったが、間に合わなかったのである。(忠興は側近とともに先に発ち、家康の警護)

忠興により棄教させられた又左衛門は、再びキリシタンとなっていた。この一連の行動は当然、忠利の知りうるところとみる。
オルファネルはその後、豊後、日向を目指すことになるが、日出藩家老加賀山半左衛門(隼人の従兄弟・一六二〇年殉教)にも会ったと思われ、日向では縣(あがた、後の延岡)藩領に入った。

「日向では、ドン・ミカエル(有馬直純)の叔父ヨハネ・トクエンと、古賀のダミアンによって歓待された。」(『日本切支丹宗門史』) とあるが、藩主直純とも会った可能性はある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする