先に小倉葡萄酒研究会の小川研次氏からの論考「阿部一族の一考察」を当ブログでご紹介したが、このたびその加筆分として『明石掃部』をお送りいただいたのでご紹介申し上げる。「かなり妄想的ですが・・」と仰っているが、いつもながらのご勉強ぶりには畏れ入るばかりである。
何故「阿部一族」に「明石掃部」がと不思議に思ったが、掃部の娘が「細川肥後守家臣林外記某が妻」(『寛永重修諸家譜』巻第七四〇)とあるとされる。又林外記の室が事件後、隣家の明石家に逃げ込んだことは事実である。
小川氏のこの論考は、私にとってはかなりショックなものであった。
大変興味深いこの論考を4回に亘りご紹介する。
■まえがき
■第四章 明石掃部
一 掃部の死
二 生存説
三 訴人
四 家老の死
五 田中氏
六 坂井太郎兵衛
七 久芳又左衛門
■第五章 掃部の子
一 小三郎とマンショ小西
二 矢野主膳と永俊尼
三 有馬
四 細川忠利と小三郎
五 小三郎の行方
六 末子ヨセフと姉
七 明石内記
八 内記と有馬
九 レジィナ
■第六章 林外記
一 林外記の出自
二 清田石見
三 阿部一族と林外記
四 大目付林外記
五 光尚と外記の死
六 仮説
(了)
『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」 小倉葡萄酒研究会 小川研次著
■まえがき
初期細川家において藩主に関わる不可解な未解決事件が二件起きている。
一つは初代熊本藩主細川忠利、二つ目は二代藩主光尚の時代であり、共通点はともに藩主死後直後に起きていることである。
まず、「阿部一族事件」は、上意討ちで一族全員犠牲となるのだが、森鴎外『阿部一族』に詳しい。もう一つは「林外記事件」である。光尚没後、大目付だった外記家族が細川家家臣から殺害される事件である。そして、その実行犯は無罪放免となる。
そこには藩主死後に抹殺しなければならなかった理由がある。そして「真犯人」の存在である。
私は当初、「阿部一族」はキリシタン根絶やし故の上意討ちと考えていたが、「林外記」に触れることにより、その「理由」への疑惑が湧いた。
「阿部一族事件」は「林外記事件」で終結することを知ったのである。それは細川家存亡に関わる大事件であった。
事件の種は小倉藩時代から植えられ、芽が出てくるのである。
第四章 明石掃部(あかしかもん) (拙稿『阿部一族の一考察』への加筆)
一、掃部の死
明石掃部(守重、全登)は備前岡山城主宇喜多秀家の客分格の重臣であり、三万三千石余りを領する武将であった。(大西泰正『明石掃部』)
「備前には、又実に立派な人々がいた。この国の大名備前中納言殿(宇喜多秀家)は、三ヶ国を領有し、異教徒であった。しかし、彼に代わって領内を治めていた従兄弟のヨハネ明石掃部殿は、熱心なキリシタンであった。」(『日本切支丹宗門史』一六〇〇年の項)
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで敗走した直後、明石掃部は「キリシタン家臣三百名とともに、親友の筑前国の領主である黒田甲斐守(長政)に仕えるために」筑前国に入った。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)
しかし、宇喜多秀家の生存が噂されると掃部と多くの家臣を召抱えた長政は「家康が悪意に解することを恐れ、彼から俸禄を没収することを命じた。」(同上)ところが、父官兵衛(母方は明石一族)は掃部を擁護するために「息子の命令を過酷と考え、その命令の執行を望まず、このことの補償を引き受けた。」(同上)のである。
そして、掃部は官兵衛の異母弟のキリシタンである惣右衛門(直之)の領地秋月に入った。その後、宇喜多秀家が薩摩の島津に押さえられていることが明らかになると、長政は掃部を隠居身分とし、明石少右衛門(次郎兵衛)、明石半左衛門、明石八兵衛、島村九兵衛(十左衛門の父) 澤原(そうのはら)善兵衛、澤原忠次郎(仁左衛門)、池太郎右衛門(信勝)、分(和気)五郎兵衛の八名の家臣に秋月領の知行を与えた。(『史伝明石掃部』)
島村九兵衛則貫は「宇喜多秀家ノ門葉ニ依テ備前ニ居シ、後ニ筑前三笠郡ニ来リ隠ル、」(『諸士由緒』三、北九州市立図書館蔵)とあり、明石掃部一族と共に筑前国に入り、御笠郡(現・筑紫野市、大野城市、太宰府市)にて隠遁していた。
やがて、上述の通り、掃部は隠居「明石道斎」となり、慶長七年(一六〇二)十二月二十三日、長政より知行一二五四石を家臣に与えられた。知行地は「下座郡」とあり、四ヶ村(頓田、中寒水、小田、片延)とあるが、筑後川右岸の秋月街道側(現・朝倉市)である。(「慶長分限帳」『福岡藩分限帳集成』)
また、「元和分限帳」(一六一九年)にも、同じように記されているが、「道斎ハ明石掃部全誉、慶長五年関ヶ原陣ノ後御家へ来鳥村参居す、慶長ノ末大阪以前御家を立退罷越玉ふ、其節二人の家来ヲ御家に被成下候様願置、澤原氏、池氏也」とあり、掃部は関ヶ原の戦いの後に筑前国へ来たが、大坂冬の陣(一六一四)の前に立ち退いたとある。その時に家臣の澤原と池を黒田藩に召抱えることを願った。
さて、その家臣は澤原仁左衛門(忠次郎))と池太郎右衛門であるが、後述の記録により明石少右衛門(次郎兵衛)、島村九兵衛の嫡子十左衛門、澤原孫右衛門(忠次郎の弟)も黒田藩家臣だったことが判明する。『常山紀談』には、澤原と島村も筑後国を離れたとあるが、疑義がある。
つまり、明石半左衛門、明石八兵衛、分(和気)五郎兵衛は掃部と行動を共にした。
尚、島村十左衛門は黒田家二代に仕えた後に小倉藩小笠原忠真に仕えた。
やがて、慶長十九年(一六一四)、再び掃部は歴史の表舞台に現れた。大坂冬の陣の大阪牢人五人衆の一人として長宗我部元親、後藤又兵衛、真田信繁、毛利勝永と共に豊臣家のために奮戦した。
翌年の大坂夏の陣において敗北を喫することになるが、『徳川実紀』や『綿考輯録』は又兵衛らと共に掃部の戦死を伝えている。
「さなた・後藤又兵衛手から共古今無之次第ニ候、木村長門・明石掃部も手柄ニ而六日討死し、残頭々生死不知候事」(五月十一日細川忠興書状『綿考輯録』巻十九)
忠興は真田信繁、後藤又兵衛の働きを古今無しの手柄とし、木村長門と明石掃部も手柄ありとして褒め称えている。
しかし、「此内明石掃部ハにけたると云説も有之」(五月十八日同上)とあるが、「にけさるハまれニ候、笑止なる取沙汰」としている。
二、生存説
イエズス会士ペドロ・モレホンの『続日本殉教録』(一六二一年刊)の一六一六年の項に掃部の生存疑惑が上がる。
「(大阪夏の陣から)一年過ぎて、すでに内府様(家康)が死んだのち、掃部殿フアン(ジョアン・ヨハネ)及び第二子・内記殿が何処かに匿われていると将軍(秀忠)に告げる者がいた。フアンは著名なキリシタンであり、そのために内府(家康)がこれを殺そうとしたことがあったし、また戦いの敵側でもあったから、厳しい探索が行われた。しかし、息子の内記殿以外、掃部殿の消息は全く発見することができなかった。このために多数の人々が捕らえられた。レオナルド木村というイエズス会のイルマン(修道士)は、彼(内記)に会ったか或いは文通したと噂されたために公儀の牢にいれられ、今日まで長崎の牢にいる。」
この記述はイエズス会日本管区長マテウス・デ・コーロスの報告を根拠にしている。(一六一七年二月二十二日付、日本発)大坂夏の陣は元和元年五月七日(一六一五年六月三日)に終戦し、家康の死は元和二年四月十七日(一六一六年六月一日)である。この告発は一六一六年六月から七月と考えられる。イエズス会は掃部の消息に対しては絶望感を持って記しているが、確定的に掃部の死を伝えていない。しかし、負傷した可能性はある。現場にいたイエズス会宣教師の報告である。
「明石掃部は火縄銃の一撃をうけて戦場を離れた。」(ロレンゾ・デレ・ポッツェ訳、イエズス会総長宛『一六一五、一六一六年度日本年報』)
ドミニコ会士フライ・ディエゴ・コリャードの『イスパニア国王に対するコリャード陳述書』も伝えている。
「特に著名な明石掃部殿と称する武将とその二人の息子(その一人は内記と称する)と共に戦い、その後生死が判明しませんでした。新皇帝(秀忠)は、彼等が生存していて、他日芽を出し、彼や彼の息にたいして何らかの害を為すかも知れぬことを恐れて、彼等を捜索させました。広島地方で、人々がAntonio(石田)というイエズス会の宣教師と共に彼(内記)を見た形跡があったので、二人の追跡者が同じくイエズス会士であるレオナルド(木村)修道士を捕らえました。これは一六一六年十二月のことであります。」
「二人の息子」は次男内記と末子ヨセフであるが、詳しくは後述する。
レオナルド木村の家はフランシスコ・ザビエルが平戸に寄宿していた木村家である。掃部らの追跡捜査の最中に長崎(日本切支丹宗門史は広島)で捕縛され、三年後に長崎の西坂にて火炙りの刑で殉教している。天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンと有馬のセミナリオの同期生だった。また、アントニオ・ピント石田も一六〇三年、中浦ジュリアンと伊東マンショらと共に、マカオの聖パウロ学院(サン・パウロ・コレジオ)で学んでいた。(『キリシタン時代の文化と諸相』)
「広島の領主・大夫殿(福島正則)は、(佃)又右衛門という彼の重要な武将であるキリシタンが内記を自分の家に泊まらせていたことを知り、甚だ遺憾に思った。又右衛門にキリシタンであることをやめさせ、皇帝(将軍)の命令に従わせるために、たびたび努力したが、信仰を棄てさせる方法などがないばかりか、大阪方の敗北(大坂夏の陣)のところで述べた様に、パードレ(司祭)・ファン・バウティスタ・ポーロを救い出し、捕らわれていたパードレ・アントニオ(石田)及び内記を自分の家に泊めていたことを知って、大夫殿は他のキリシタンと共に彼を焼き殺し妻子も殺すように命じた。」(『続日本殉教録』)
幕府による明石掃部追跡捜査線上に福島正則の重臣佃又右衛門の隠匿疑惑が発覚したのである。しかし、キリシタンを擁護していた正則であったが、幕府の処断に従わざるを得なかった。流石に関ヶ原で対峙した掃部の息子と聞いて驚いたことだろう。
内記はすでに逃げていたが、又右衛門と同居していたアントニオ石田も捕縛された。(『秋月のキリシタン』) ここで内記の足跡が消える。
三、訴人
イエズス会の記録は山鹿素行(一六二二~八五年)の『武家事紀』(巻第二十六)により具体的に裏付けされる。
「明石掃部ガ居所後ニ色々御穿鑿也、掃部カ領分ハ筑前ノ内小田ト云所也、(中略) 島村十左衛門・惣原孫右衛門ヲ駿府へ被召拷問也、両人不落ヲ父既ニ白状ノ由ヲ告テ終ニ間落ス、 田中筑後守内田中長門守(掃部聟)方へ送リタルノコト、其後筑前へ両人ヲ帰サル、即両人トモニ(黒田)長政家人タリ、長門守(一万石)ヲ拷問ニ及フトイヘトモ、終ニ不落シテ死、」(国立国会図書館デジタルコレクション)
(明石掃部の居所を後で色々と穿鑿した。掃部の領地は筑前の小田という所と分かり、島村十左衛門と惣原孫右衛門を駿府へ呼び、拷問にかけたが落ちなかった。父(島村と思われる)が既に白状したことを告げたら落ちた。田中筑後守(忠政)家中の田中長門守(掃部聟)の元へ送ったとのことであった。その後、二人を筑前に帰したが、二人とも黒田長政の家臣であった。そして長門守(一万石)を拷問にかけたが、ついに落ちず死亡した)
掃部の旧臣島村十左衛門と澤原孫右衛門が幕府の掃部穿鑿のために拷問にかけられ、ついに落ちて、筑後柳河藩主田中忠政の家臣田中長門守の元へ送ったと白状したが、「掃部の聟」である長門守は死を持って庇ったとある。
「田中長門守」は藩主の「同族同苗長門守は一万石を領し、全登(掃部)の女婿であった」(『大阪城の七将星』福本日南)
さらに、前出の「コーロス報告」に重要な記述がある。一六一五年の大坂夏の陣後のことである。
「パウロ明石内記であるが、まだ二十歳ばかりの若者である。この人は戦乱を脱し、当て所なく各地を変装してさまよったが、遂に義理の兄弟のいる筑後国に落ち着いた。」(H・チースリク『秋月のキリシタン』)
『武家事紀』の「掃部聟」と「義理の兄弟」は一致する。掃部の娘婿が筑後にいて、その人物が「田中長門守」ということになる。
つまり、『武家事紀』は大阪夏の陣以降の事を語っているのである。
しかし、ここで新たな疑問がおきる。掃部の娘は誰だろう。掃部は二人の娘がいたとされ、カタリナとレジイナであるが、この件については後ほど詳述する。
さて、掃部と内記の隠匿を「将軍に告げる者」は誰だろう。
元和二年(一六一六)六月十五日(新七月二十八日)の豊前小倉藩主細川忠興の嫡子忠利への書状に注目する。
「田中の事、内之者祈状(訴状)を上げ申し候由に候、左様ニ之在るべき儀共多くの候、有様ニさへ御耳ニ入り候はば、身上果て申すべく候、筑後の国も身上果て候とて、以外さハぎ申し候由に相聞え候事」(「細川家史料」『秀吉を支えた武将田中吉政』)
(田中家の事だが、家中の者が訴状を幕府に上げたので、調べるといろんな事がわかり、筑後国改易の可能性もあり大事になっていると聞いている)
忠興は公事沙汰(くじさた・訴訟)により、忠政が改易される可能性を語っているのである。
書状の日付も前述のイエズス会の告発時期と重なる。
『田中興廃記』によれば、訴人は相続争いで不仲だった実兄の久兵衛康政(吉興)で、忠政が大阪方に内通していたと訴えたとある。(同上) 幕府からすれば大阪の陣不参と重なり、疑惑が深まったのである。
元和四年(一六一八)になっても公事沙汰の決着はつかなかったようであるが、忠政の勝ちとなり所領が加増されたとも伝わる。(同上)
しかし、矢野一貞著『筑後将士軍談』によると、「康政(吉興)」が「江戸へ訴状ヲ捧ゲ、忠政大阪ニ内通シテ出陣セザル由公聞ニ達ス」そして、「訴訟ノ賞トシテ江州ノ内一万石ノ地ヲ玉ハリヌ、然レドモ後年自ラ其非ヲ悔ヒ、禄ヲ辭シテ浪牢ノ身ト成リテ病卒」とあり、吉興は近江に褒賞一万石の地を拝領している。さらに後年、後悔して禄を辞し、浪人となって病死したという哀話を付記している。
いずれにせよ、忠政は幕府から不信感を持たれ、江戸の藩邸にいたが、閉門同様となり徹底捜査が始まったのである。
イエズス会の明石掃部隠匿告発の報告は一六一六年であるが、『武家事紀』の田中長門守捕縛拷問も同年と考えられ、以降数年間に渡り幕府の穿鑿は続くが、忠政の公事沙汰騒動と重なるのである。つまり、「将軍に告げる者」と「内之者」は同一人物であり、吉興と見て間違い無いだろう。
四、家老の死
吉興の訴えの原因の一つに考えられるのが、「田中筑後殿(忠政)は我が身に降りかかる危険を顧ず、教えを賞賛し、信者には絶対の平和を与えていた。彼は家老の一人がキリシタンを苦しめたといって、死刑に処した。彼は公然と好意を示した唯一の大名であった。」(『日本切支丹宗門史』)とあり、忠政のキリシタン擁護の姿勢にある。 さらに『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』に具体的に記されている。
「筑後の国の領主、田中筑後(忠政)は、内府(家康)が発した脅迫的な激しい命令(キリシタン追放)により、それに従わない他の殿が所領を失う危険に曝されているにもかかわらず、キリシタンを苦悩させなかった。(中略) 彼は我らの修道院や教会に手をつけず、そのままにしておいた。誰か知らないが、ある人物が大胆にも彼にそれらに手をつけるよう求めたが、彼はただ、顔を曇らせ眼を伏せただけで、その男を面前から遠ざけた。彼は、奉行の一人をある過失を犯したという名目で処罰したが、実際には、この行が荒々しい方法でキリシタンを迫害したからであった。彼は、何人かにキリシタンとして公然と暮らすことを許した。」(「ロレンゾ・ポッツェ訳、イエズス会総長宛」)
忠政は一六一六年に「大阪内通」で忠政失脚を狙う吉興により告発されたとされるが、このようなキリシタン擁護の姿勢も要因の一つであろう。
「処罰された奉行」は城島の宮川大炊守正成と考えられる。(『筑前国史-筑後将士軍談』)
「領主(忠政)の従兄弟」は「殿中で他の武士と言い争い、分別を失くし、短気を起こして、主君の前で相手に対し刀に手をかけた。日本においては背信行為として許しえないので、主君は即刻死刑を命じた。」(『続日本殉教録』)
「宮川大炊守は主君忠政の兄で上妻郡福島城の城主だった田中久兵衛康政(吉興)と仲が善く、主君の忠政とは事ごとに衝突していたが、元和元年(一六一五)、大坂夏の陣の直前に、柳川城の御殿で、忠政に殺された。」(『城島むかし』城島文化協会郷土文化部編集)
『筑後将士軍談』に「処罰」の原因は二説あり、一つは宮川が忠政の大阪夏の陣遅参に諫言したこととし、もう一つは陣直前、酒席にて小競り合いで宮川が田中大膳に斬りかかろうとしたことから、忠政が斬ったという説である。この説は『続日本殉教録』に近い。
慶長二十年(一六一五)四月晦日付の「覚」は、筑後田中家と佐賀鍋島家との間での「人返し」についての約定だが、宮川大炊と辻勘兵衛尉の名が連なっている。(『筑後国主田中吉政・忠政』)
さて、夏の陣だが、細川家では四月十一日付の忠興から忠利への書状に「陣用意被申付由尤候事」(『綿考輯録巻十九』)とあり、この頃に各大名へ陣備えの通達があった。しかし、上述のように四月末には、宮川大炊はまだ殺害されていない。つまり、忠政は鼻から出陣する気がなかったのではなかろうか。そうすれば、宮川の陣参戦の諫言が殺害理由なのかもしれない。
いずれも反発した宮川の家臣らが城島城に籠ったために、忠政が軍勢を送り込み鎮めた。このことにより大阪出陣が遅れたという。(『田中興廃記』『筑後将士軍談』)しかし、イエズス会によれば、「奉行がある過失」で処罰されたのは、実はキリシタンを迫害したのが原因であったとしているが、会にとって都合のいい解釈であろう。
教会破却の諫言をした人物は吉興と考えられ、忠政のキリシタン擁護の姿勢に危機感を強く感じたからである。幕府の禁教令下に取った行動は御家を守るために当然の行動である。そしてついに、吉興の告発となるのではなかろうか。むしろ、陣不参の理由は城島出入よりも「大阪内通」説が真実に近いのではなかろうか。
因みに忠政は陣終結後の「元和元年(一六一五)七月二十八日、田中筑後守忠政、御目見」(『駿府記』)とあり、大御所徳川家康に謁見している。陣不参の弁明をしたと思われ、同年八月十六日の細川忠利宛の忠興の書状に「田中筑後今日当地をとをり候、御前済たる由候」(『綿考輯録』巻二十)とあり、この件については解決したとしている。しかし、翌年に吉興から「大阪内通」を訴えられるのである。
推考だが、吉興は忠政の「大阪内通」の相手を筑後に潜伏していたとされる明石掃部とした可能性がある。キリシタンを擁護していた忠政だが、掃部との大きな共通点は豊臣家恩顧であったことである。
やがて、幕府の捜索により、掃部潜伏先とみられる「田中長門守」の名が上がった。