津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■缶コーヒー変じて文春文庫と成る

2021-12-27 11:14:03 | 徒然

 昨晩は、明日は少々なりともの積雪があり白銀の世界だろうと思ってベッドに入ったことであった。
暖冬気味であった年末も今朝はずいぶんと冷え込んで、ベッドからでたら一面に広がる銀世界を想像してカーテンを開けたが、按に相違していた。
時間がたつにつれて太陽も上り、穏やかな師走の一日を迎えたという感じである。
土日と暦並みに散歩を休んでしまったので、早々に散歩に出る。缶コーヒー代をポケットにねじ込み4㌔コースをあるく。
こむら返りを起こした足が痛くスピードが上がらない。折り返しの場所で本屋さんの看板が見えた。ぎりぎりオープン時間を過ぎているようなので少々立ち寄ってみる。
カレンダーやダイアリーが正面に並べられて年末の装いである。
缶コーヒーは買えなくなるなと思いながら、1,000円からおつりがもらえる文春文庫を一冊購入。
Amazonに注文して今日到着する一冊と共に、年末の時間つぶしにする。
太陽の恩恵を背に受けながら、少々汗ばみ、手袋もはずしてのんびり一時間をあるいた。
30日を歩き納めにしようと思っている。

 

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■寛永六年十二月廿七日の書状

2021-12-27 08:34:15 | 歴史

 ~12月27日の過去の事件の忘備録から~

 寛永六年十一月八日の朝、京の公家衆は突然の伺候の知らせに驚き参内した。
そんな中奉行頭が罷り出て「譲位である」と告げ諸卿は大いに驚愕したという。
後水尾天皇と東福門院(徳川秀忠女・和子)の間に生まれた女一宮を内親王に敍することに対し、天皇は土御門泰重(細川幽齋・妹の子)に調査を命じ、その返事を得るとすぐさま内親王の宣下を行っている。(十月廿九日)
徳川家に対する後水尾院の強い反抗の意思が貫かれた、綿密にひそやかに計画されたものであった。幕府の驚きはいかばかりであったろうか。

 このような状況は京に在った三齊から忠利に送られた書状により知ることが出来る。
寛永六年十二月廿七日の書状においては
  ・禁中・公家衆の経済的不安 
  ・公家衆官位に幕府の干渉がある事
  ・幕府からの加増や寄進があるも天皇の自由にならない事
  ・このため貸金を行い利息をとるなど恥ずべき状態にある事
  ・勅許した紫衣をはく奪するなど、天皇の裁量権を否定した事
寛永五年二条城行幸からわずかしか経たぬこの時期に、これらの事に対する強い不満が天皇の御心を傷つけたというのである。
そして最後に
  又かくし題には、御局衆のはらに宮様達いかほども出来申候を、おしころし、又は流し申候事殊の外むごく、
  御無念に思し召さるゝ由候 いくたり出来申し候とも武家の御孫よりほかは、御位には付け申すまじくに、あ
  まりにあらけなき儀とふかく思し召さるゝ由候
これは徳川方が、東福門院以外の女御にできた御子を産まれたのち殺したり、流産させたりした「あらけなき」事実があったことが洛中に知られていたことが判る驚愕すべきことである。
又三斎は、先述の土御門泰重をはじめとする親しい公家衆から、確かな情報を得ていたのであろう。
このことは隆慶一郎の「花と火の邸」で、柳生衆のあまりにもむごい仕業として描き出されているが、それが度を越えているだけに恐ろしく、三斎の報告書に重なる。

 細川家に残ると三斎と忠利のあいだの種々の書簡は膨大な数に上るが、上記のような貴重な情報がもたらされ、今日の歴史研究の超一級資料として現存することは有難いことである。

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