津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠利家督後の惣奉行たち

2021-12-18 15:15:28 | 歴史

 寛永初期、小倉細川藩においては66種の奉行職がありその数は198人に達していた。その頂点にあったのが「惣奉行」である。領国の法・規則の公布・年貢諸役の賦課・財政上の諸案件など惣奉行の決済に任せられた。判断不可能な案件は家老に相談を求めることとした。尚家老取り扱いの案件は、上級武士層に関する案件や幕府や禁裏・大名等に関する事のみとされた。
忠利が家督して以降惣奉行は、小篠次大夫、浅山清右衛門(修理)、仁保太兵衛、続兵左衛門、西郡刑部少輔、横山助進、田中与左衛門(兵庫)等が務めた。稲葉継陽著「細川忠利・ポスト戦国世代の国づくり」から

■小篠次大夫  元和7年~9年 次大夫は転切支丹であり、その時期は慶長拾九年頃だとされる。
        丹後以来の家だが、その祖は大江広元末流とされる。
        先祖附においては嫡子・七左衛門を初代としている。12代の孫・四人が揃って神風連の乱に加担して自刃した。
        尚、熊本史学 89・90・91合併号に馬場隆弘氏の小篠家に係わる論文が掲載されている。
           「戦国期における石清水八幡宮勢力の展開と寺内町
               肥後藩士小篠家と河内国招提寺内の関係を手がかりに」

■浅山清右衛門 始め清右衛門、元和9年~寛永11年迄奉行職、寛永4年正月忠利の命によって修理亮と改。
        同二十年三月五百石加増、都合弐千五百石知行。
        二代目清右衛門か、延宝二年十一月二十三日 御暇被遣候。

■仁保太兵衛  幼少より彦山座主忠宥の元で養われ、元和二年召し出し(27歳)
        中小姓、二十石五人扶持。元和三年、知行二百石、馬廻組。
        元和7~9年惣奉行。寛永初年大阪米奉行・同屋敷奉行などを務める。

■続兵左衛門  續亀之助の男、江戸江相詰衆「藤」三百石 (於豊前小倉御侍帳)の記録が残る。
        子孫なしか、詳細不明。

■西郡刑部少輔 大炊介・清忠、清忍(刑部)元和10年~寛永3年閏4月惣奉行。 
        岐阜戦功吟味--与一郎様御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録)
        天正年中於丹後被召出五百石、鉄砲三十挺頭、勢州亀山城攻の戦功五百石、岐阜・関ヶ原・福智山の戦功によ
        つて千石加増、都合二千石、御小姓頭御番頭、多分大炊と云違るとて刑部と改候、

■横山助進   元和10年~寛永3年閏4月惣奉行。「於豊前小倉御侍帳」には 御弓二十挺頭 三百五十石とある。
        天草島原の乱に於いては幕府上使・板倉内膳正御付として細川家から派遣され、内膳正と共に討死。

■田中与左衛門 柳川藩主・田中吉政弟氏次 寛永3年正月~寛永9年惣奉行
        留守居組 千石(一書ニ御鉄炮二十五挺頭) (於豊前小倉御侍帳)・・兵庫
        消息:寛文三年正月(元旦)忠利惣奉行ニ改名ヲ命ズ 「日帳」
          (浅山)清右衛門・(田中氏次)與左衛門も、明日名をかハり可申旨、小谷忠二郎を以被仰出、
           則清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成旨由申上候也
                                (福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・一)

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十三)

2021-12-18 15:12:20 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(十三)

 なく蟬の聲を時雨にまがへてもたちよる森の下露はなし

 詠百首和歌の中。さわがしく鳴く蟬の諸聲は、しぐれ(初冬の驟雨)のやうに聞こ
える。蟬はおのれの聲を雨にまがへ、よそほひ佯るつもりか知らないが、一向に森の
雫は落ちて來ない。蟬聲如雨といふけれども、眞夏の樹葉は乾き切つて露もおちぬも
のをと、洒落れたところが此の歌の狙ひどころである。俳諧に「蟬時雨」といふ語が
ある。古歌には、蝉の涙といふ詞あり、森の露雫は鳴く蟬の涙であらうと譬へたのが
折々あるけれども、蟬の聲を雨の如しと歌つたのは、案外に見出し難い。少しく擧げ
ると、

 村雨の跡こそみえぬ山の蟬なけどもいまだ紅葉せぬ頃 (月淸集)

 雨そそぐ嶺の梢をながむればむら雲かかる蟬の聲々  (千五百番)

 なく蟬の聲ふりたつる夏の日にゆるぎの森は村雨ぞふる (夫木抄)

この中では良經の「村雨の跡こそ見えぬ」が幽齋の一首と最もよく似てゐる。白樂天
に蕭風風雨天・蟬聲暮啾々などあるが、如雨は見付け得ない。さやうの古い事はさて
措き、「なく蟬の聲を時雨に」云々は、幽齋の歌と俳諧との關連をたどる上に見逃し
てはならぬのである。


 風わたる洲崎のよもぎ冬枯れて夕霜しろきをちの川浪

 詠百首和歌の中。まことに手際のよさ敍景歌である。加茂川の冬が直ちに眼に浮
ぶ。「洲崎」川の中洲の尖つたあたり。「夕霜しろき」むろん枯蓬に霜が白くおいた
のであつて、川浪に續く語ではない。「夕霜しろき」と切つてしまつた方が佳かつ
た。「をちの川浪」川上か、川下か、遠くの水が夕暮の薄明の中になほ光つてゐる。
同じく集、冬部、

 河原風ふきにけらしな霜枯の洲崎の蓬をれふしにけり

とある方が、一層で宜しいかも知れぬ。

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