寛永初期、小倉細川藩においては66種の奉行職がありその数は198人に達していた。その頂点にあったのが「惣奉行」である。領国の法・規則の公布・年貢諸役の賦課・財政上の諸案件など惣奉行の決済に任せられた。判断不可能な案件は家老に相談を求めることとした。尚家老取り扱いの案件は、上級武士層に関する案件や幕府や禁裏・大名等に関する事のみとされた。
忠利が家督して以降惣奉行は、小篠次大夫、浅山清右衛門(修理)、仁保太兵衛、続兵左衛門、西郡刑部少輔、横山助進、田中与左衛門(兵庫)等が務めた。稲葉継陽著「細川忠利・ポスト戦国世代の国づくり」から
■小篠次大夫 元和7年~9年 次大夫は転切支丹であり、その時期は慶長拾九年頃だとされる。
丹後以来の家だが、その祖は大江広元末流とされる。
先祖附においては嫡子・七左衛門を初代としている。12代の孫・四人が揃って神風連の乱に加担して自刃した。
尚、熊本史学 89・90・91合併号に馬場隆弘氏の小篠家に係わる論文が掲載されている。
「戦国期における石清水八幡宮勢力の展開と寺内町
肥後藩士小篠家と河内国招提寺内の関係を手がかりに」
■浅山清右衛門 始め清右衛門、元和9年~寛永11年迄奉行職、寛永4年正月忠利の命によって修理亮と改。
同二十年三月五百石加増、都合弐千五百石知行。
二代目清右衛門か、延宝二年十一月二十三日 御暇被遣候。
■仁保太兵衛 幼少より彦山座主忠宥の元で養われ、元和二年召し出し(27歳)
中小姓、二十石五人扶持。元和三年、知行二百石、馬廻組。
元和7~9年惣奉行。寛永初年大阪米奉行・同屋敷奉行などを務める。
■続兵左衛門 續亀之助の男、江戸江相詰衆「藤」三百石 (於豊前小倉御侍帳)の記録が残る。
子孫なしか、詳細不明。
■西郡刑部少輔 大炊介・清忠、清忍(刑部)元和10年~寛永3年閏4月惣奉行。
岐阜戦功吟味--与一郎様御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録)
天正年中於丹後被召出五百石、鉄砲三十挺頭、勢州亀山城攻の戦功五百石、岐阜・関ヶ原・福智山の戦功によ
つて千石加増、都合二千石、御小姓頭御番頭、多分大炊と云違るとて刑部と改候、
■横山助進 元和10年~寛永3年閏4月惣奉行。「於豊前小倉御侍帳」には 御弓二十挺頭 三百五十石とある。
天草島原の乱に於いては幕府上使・板倉内膳正御付として細川家から派遣され、内膳正と共に討死。
■田中与左衛門 柳川藩主・田中吉政弟氏次 寛永3年正月~寛永9年惣奉行
留守居組 千石(一書ニ御鉄炮二十五挺頭) (於豊前小倉御侍帳)・・兵庫
消息:寛文三年正月(元旦)忠利惣奉行ニ改名ヲ命ズ 「日帳」
(浅山)清右衛門・(田中氏次)與左衛門も、明日名をかハり可申旨、小谷忠二郎を以被仰出、
則清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成旨由申上候也
(福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・一)