津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十七)

2021-12-23 15:58:43 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(十七)

 なき人の面影そへて月の顔そぞろに寒き秋の風かな

 秋部「八月十五日月次會當座に、寄月哀傷」。亡くなつた人の俤までも添へ、吾が
心にそれを思ひ浮かばせて、この夜の月の美しいおもてを眺めるには堪へぬほど寂し
いのに、すずろに、はしたなく、風さへも寒く吹いて、身に沁みることではある。
「月の顔」まことに佳い句とおもふ。月を見ながら人を思ひ出し、その面影を偲ぶと
いふ意味の歌は古來多く、殊に戀歌に夥しいのであるが、單的に月の顔と詠じたもの
みあつて、何人ともことわつてゐないが、筆者は、これは夫人を悲しんだ作にちがひ
ないと睨んだのであつたが、間違つてゐた。細川系圖によれば、幽齋夫人光壽院は沼
田上野介光兼女、天文十三年生、元和四年七月廿六日江戸邸にて逝去、年七十五と

る。すなはち幽齋よりも十歳若く、彼亡後を八箇年ながらへたのであつた。この夫
人は忠興の母で、正室であつたが、幽齋には子女十人あるので、側室もあつたに相違
なきゆゑ、或は側室を思ひ出したかもしれぬ。いづれにせよ右歌は、婦人に對する
非情の吟なること明らかだ。〇ついで乍ら、正室のことを少しく調べる。忠興誕生は
永禄六年十一月十三日於凶徒一條館なるゆゑ、結婚は幽齋三十歳よりも少しく以前、
桶狭間役の頃と考へて、見當はさまで違はぬ筈だ。當時の幽齋すなはち藤孝は將軍足
利義輝の側近で兵部大輔従五位下ぐらゐの身分であつた。夫人の實家沼田氏は同じく
足利幕臣で、外様詰衆、家柄は餘り高くはなかつたらしい。細川兩家記を見ると、永
                                 
禄八年五月十九日將軍義輝殺された時に「或討死或腹切」三十一人の中に沼田上野
を擧げてゐるので、藤孝の岳父は主君に殉死した忠義の士なることを知る。


註:この沼田上野介は藤孝岳父の光兼ではなく、その嫡男光長のことである。藤孝室・麝香の長兄。

 

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■長い事一息つけば・・・・・

2021-12-23 06:25:33 | 徒然

 私が中学生くらいの事で全くうろ覚えの話だが、同居していた母方の祖母が「長い事一息つけば・・・・・」という句があると言っていた。「・・・・・」は五文字であったと思う。その五文字が判れば、その歌の事も判るということだろう。

本は読むべしとつくづく思ったのは、この事が解決する手がかりを今日見つけ出した。というよりも回答を見つけ出した。
本当に久しぶりに、本棚から准院生(実は中野好夫)著の「完本一月一話・読書こぼればなし」を取り出して眺めていたところ、なんと「長いこと一息ついて和田の原」という項を見出した。私は「一息つけば」と覚えていたが「一息ついて」が正解だった。
これは百人一首を読み上げる時、まず作者の名前をあげ、つづいて和歌をよむのだが、作者の名前がすごく長いので一息ついたのち「・・・・・」と続けることを可笑し気に狂句にしたものだった。
作者は藤原忠道、歌は百人一首76番「和田の原漕ぎ出てみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波」である。

                

ところが正式な発声は「藤原忠道・和田の原・・・・・」ではなく、その官名とでもいうのか、「法性寺入道前関白太政大臣」であるため、これにつづけて「和田の原・・・・・」と読むので、名前の紹介で一息つかなければならないという訳だ。

回答は見つかったが、何故祖母がこんな話を知っていたのかが不思議である。もっとも私が幼い頃、祖母は百人一首を取り出してはよく眺めていたことは確かだ。
私は当時絵が描かれている札が「読み札」だということさえ知らなかったほど無頓着であった。
百人一首は脳みそを活性化させるという。少し諳んじてみようかと思ったりもするが・・・・・??
どこかに眠っている百人一首の在処さえ判らない有様である。

 そして余計事だが、NHK熊本局に法性(ほっしょう)アナウンサーが居られることに気づいた。

藤原忠道の入道号である法性寺に何か関係あるのではないかと考えたりしているが、如何だろうか?

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