「歌仙幽齋」 選評(十七)
なき人の面影そへて月の顔そぞろに寒き秋の風かな
秋部「八月十五日月次會當座に、寄月哀傷」。亡くなつた人の俤までも添へ、吾が
心にそれを思ひ浮かばせて、この夜の月の美しいおもてを眺めるには堪へぬほど寂し
いのに、すずろに、はしたなく、風さへも寒く吹いて、身に沁みることではある。
「月の顔」まことに佳い句とおもふ。月を見ながら人を思ひ出し、その面影を偲ぶと
いふ意味の歌は古來多く、殊に戀歌に夥しいのであるが、單的に月の顔と詠じたもの
みあつて、何人ともことわつてゐないが、筆者は、これは夫人を悲しんだ作にちがひ
ないと睨んだのであつたが、間違つてゐた。細川系圖によれば、幽齋夫人光壽院は沼
田上野介光兼女、天文十三年生、元和四年七月廿六日江戸邸にて逝去、年七十五とあ
る。すなはち幽齋よりも十歳若く、彼亡後を八箇年ながらへたのであつた。この夫
人は忠興の母で、正室であつたが、幽齋には子女十人あるので、側室もあつたに相違
なきゆゑ、或は側室を思ひ出したかもしれぬ。いづれにせよ右歌は、婦人に對する
非情の吟なること明らかだ。〇ついで乍ら、正室のことを少しく調べる。忠興誕生は
永禄六年十一月十三日於凶徒一條館なるゆゑ、結婚は幽齋三十歳よりも少しく以前、
桶狭間役の頃と考へて、見當はさまで違はぬ筈だ。當時の幽齋すなはち藤孝は將軍足
利義輝の側近で兵部大輔従五位下ぐらゐの身分であつた。夫人の實家沼田氏は同じく
足利幕臣で、外様詰衆、家柄は餘り高くはなかつたらしい。細川兩家記を見ると、永
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禄八年五月十九日將軍義輝殺された時に「或討死或腹切」三十一人の中に沼田上野
介を擧げてゐるので、藤孝の岳父は主君に殉死した忠義の士なることを知る。
註:*この沼田上野介は藤孝岳父の光兼ではなく、その嫡男光長のことである。藤孝室・麝香の長兄。