「歌仙幽齋」 選評(二十一)
ちはやぶる神のやしろや天地とわかちそめつる國の御柱
九州道の記。天正十五年、五十四歳。秀吉の西征に參加せんとて幽齋は此年四月中
旬丹後田邊城を出發し、伯耆・石見・長門を經て九州に渡り、博多・大宰府まで行つ
たが、七月上旬歸路に就き、秀吉とは別行動を取つて山口・嚴島・蟲明・室・高砂・
飾磨・明石など内海の名勝を見物しつつ、同月廿三日大坂に著く。往復とも概ね海路
によつた。九州道の記は、その時の紀行文で、和歌や發句を數多まじへてゐる。〇右
一首は伯耆國、現在西伯郡佐陀村の古祠を拝した際の作で、四月廿七日條「船をば浪
間に待まはし侍べきよし申て、杵築宮見物のため、かちにてたどり行。道のほど三里
ばかりへて、木深く、山野たたずまゐただならぬ社有をみめぐりて、社人と覺えたる
に尋侍るしに、これなむ佐陀の大社なり、神躰いざなぎいざなみの尊と教へけるに、
しか/\物語し侍るに、日もたけ雨もいたくふれば、衣あぶらむほどのやどり求てと
どまりぬ」と記して、さて「ちはやぶる」云々の一首を載す。「天地とわかちそめつ
る」云々、古事記冒頭の天地初發之時を想ひ、二神産島の御事を言つたのであること
荒れはてたる山中の小祠ながら開闢の二神が鎮まり給ふ處、これ即ち盤石の如き國の
御柱なりと、稽首したのだ。何の虚飾を用ゐずして、直ちに太素杳冥の神代を歌つた
ひさし
ところが壯嚴だ。梅雨の前觸かとおもはれる雨を避けて、小祠の傾く簷の下に体んで
ゐる幽齋、濡れながら侍べつてゐる少數の將卒、それらの光景を眼に描いてこの歌を
誦すると、歴史は面白い。
これやこの浮世をめぐる舟のみち石見の海のあらき浪風
にま
九州道の記。四月廿九日條「石見の大うらと云所にとまりて、明るあした、仁間と
いふ津まで行に、石見の海荒きといふ古事にも違わず、白波かかる磯山の、巌そばだ
ちたるあたりを漕行とて」。仁間、また仁摩は石州邇摩郡海濱の部落。石見の海荒き
といふ古事云々は、多分、人麿の從ニ石見國一別レ妻上來時の長歌の中に「朝羽振風こそ
よらめ、夕羽振浪こそ來寄れ」とあるのを指すのであらう。「これやこの」これが、
その、世俗の謂ふ所の、の意」浮世をめぐる舟のみち」人生をば苦界を渡る舟に譬へ
たので、勿論、佛教の思想である。佛典では、われ等衆生は、しばしば舟や車にたと
へられる。一國一城の主なる幽齋といへども、その例に漏れない。況んや彼は、只
今、山陰風雨の海を難航して、生死のほどもわからぬ戰場に向ひつつあるのだ。