津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十一)

2021-12-29 11:59:17 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十一)

 ちはやぶる神のやしろや天地とわかちそめつる國の御柱

 九州道の記。天正十五年、五十四歳。秀吉の西征に參加せんとて幽齋は此年四月中
旬丹後田邊城を出發し、伯耆・石見・長門を經て九州に渡り、博多・大宰府まで行つ
たが、七月上旬歸路に就き、秀吉とは別行動を取つて山口・嚴島・蟲明・室・高砂・
飾磨・明石など内海の名勝を見物しつつ、同月廿三日大坂に著く。往復とも概ね海路
によつた。九州道の記は、その時の紀行文で、和歌や發句を數多まじへてゐる。〇右
一首は伯耆國、現在西伯郡佐陀村の古祠を拝した際の作で、四月廿七日條「船をば浪
間に待まはし侍べきよし申て、杵築宮見物のため、かちにてたどり行。道のほど三里
ばかりへて、木深く、山野たたずまゐただならぬ社有をみめぐりて、社人と覺えたる
に尋侍るしに、これなむ佐陀の大社なり、神躰いざなぎいざなみの尊と教へけるに、
しか/\物語し侍るに、日もたけ雨もいたくふれば、衣あぶらむほどのやどり求てと
どまりぬ」と記して、さて「ちはやぶる」云々の一首を載す。「天地とわかちそめつ
る」云々、古事記冒頭の天地初發之時を想ひ、二神産島の御事を言つたのであること
荒れはてたる山中の小祠ながら開闢の二神が鎮まり給ふ處、これ即ち盤石の如き國の
御柱なりと、稽首したのだ。何の虚飾を用ゐずして、直ちに太素杳冥の神代を歌つた
                                ひさし
ところが壯嚴だ。梅雨の前觸かとおもはれる雨を避けて、小祠の傾く簷の下に体んで
ゐる幽齋、濡れながら侍べつてゐる少數の將卒、それらの光景を眼に描いてこの歌を
誦すると、歴史は面白い。

 

 これやこの浮世をめぐる舟のみち石見の海のあらき浪風
                                    にま
 九州道の記。四月廿九日條「石見の大うらと云所にとまりて、明るあした、仁間と
いふ津まで行に、石見の海荒きといふ古事にも違わず、白波かかる磯山の、巌そばだ
ちたるあたりを漕行とて」。仁間、また仁摩は石州邇摩郡海濱の部落。石見の海荒き
といふ古事云々は、多分、人麿の從石見國妻上來時の長歌の中に「朝羽振風こそ
よらめ、夕羽振浪こそ來寄れ」とあるのを指すのであらう。「これやこの」これが、
その、世俗の謂ふ所の、の意」浮世をめぐる舟のみち」人生をば苦界を渡る舟に譬へ
たので、勿論、佛教の思想である。佛典では、われ等衆生は、しばしば舟や車にたと
へられる。一國一城の主なる幽齋といへども、その例に漏れない。況んや彼は、只
今、山陰風雨の海を難航して、生死のほどもわからぬ戰場に向ひつつあるのだ。

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■歳末読書

2021-12-29 06:58:00 | 書籍・読書

 一昨日缶コーヒー変じて文春文庫と成るを書いたが、やはり缶コーヒーを買うべきだったと後悔している。
その日の夕方、この本を開いて読み始めて「あらっ」と思った。「これ読んでるよ~」
本棚を探して見たら、同じ本があった。不覚・不覚、年の暮れに何たる失態と我ながら恥ずかしい為体である。

 一方Amazonで注文していた本が届いた。
1月8日に熊本城ホールで全国に先駆けて上映される映画「われ弱ければー矢嶋楫子伝」の原作、三浦綾子の同名の著書である。
映画を観る前に読んでおこうと思ったが故である。
読み進めていくうちに、熊本では「四賢夫人」の一人として良く知られるこの矢嶋楫子のことを、全く知らなかったことに気づかされた。
                     

 酒乱の癖がある三人の子持ちの林某に嫁ぎ、自らも三人の子をなし、酒を飲んでは刀を振り回す林の凄まじい10年間のDVに耐えてきた楫子が、子供を残して去っていく。
楫子にしろ、横井小楠に後妻として嫁いだつせ子にしろ、豪農の娘とはいえ武家の家に嫁ぐとまるで下女扱いだったようだ。
楫子は「四賢夫人」といわれるつせ子を含む三人の姉たちにも冷たくあしらわれている。その時代まだ女性からの離婚という法制は存在しなかった。
40歳に成り、東京にあった兄・直方が病気となったことで加勢の為に上京した楫子は、教育者になるべく勉学に励み教師となった。
一方では直方の許に書生としていた10歳年下の鈴木要介に心を寄せ、なさぬ仲と成り不義の子を産んだ。
娘は終生父親を知らされずに生きた。兄弟姉妹の批難は相当のものであったらしいが、一人兄・直方は理解を示したらしい。

甥の徳富蘆花は手紙を送り、はげしく楫子を詰問している。それは終生蘆花の心の内に消すことが出来ないものであったらしい。
そんな中で、熊本に置いてきた林との間にうまれた治定なる13歳の子が、花岡山にてキリスト教者としての誓いの集まり
(熊本バンド)に参加したという知らせが届いた。
さらに姉・つせ子の子横井時雄、また久子の子・徳富猪一郎も同様であるという。
この驚くべき知らせに楫子の胸中に「キリスト教」という言葉が、大きくその場所を広げたのであろう。
教師としてその優秀さを周りに知られていた楫子は、突然ミッションスクールの新栄女学校の校長に招聘される。現校長のミセス・ツルー女史の乞いであった。
熱心な要請を受けて楫子はこれを受ける。一方では熱心に教会に通い明治11年には洗礼を受けることになる。
ミセス・ツルーが他にも経営していた学校と合併し、「女子学院」となったが、ここでも楫子は乞われて初代学院長に就任した。
女子教育の巨頭となった楫子は、さらに娼妓をその世界から救うために「矯風会」を立ち上げる。
90余歳に死去するまで、止むことを知らぬ精力的な活動を行い、教育者・社会運動家として巨名を残した。
熊本の「四賢夫人」という言葉では表し得ない大人物である。

 映画では楫子役を常盤貴子さんが演じられる。
脇を固める男優・女優の方々の写真をパンフで見ながら、どなたが何方の役を演じられるのだろうかと思いながら1月8日を待つことになる。

興味深い本は、一気呵成に読了することが出来る。これで年末年始に読む本がなくなってしまった。
また、青空文庫で年末恒例の「おおつごもり」を読むことにしよう。

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