津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十八)

2021-12-24 10:04:37 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(十八)

 神の心いさみやすらむその駒になほ草かへとうたふ夜の聲

 冬部「夜神樂」。宮中御神樂、毎年十二月吉日を選び、内侍所にて行はせられる。
夜の御行事とて庭燎を焚く。さて、その奏する神樂歌の中かも、

 その駒ぞや、我に、我に草乞ふ、草は取り飼はむ、轡とり、草は取り飼はむや、
 水はとり飼はむや

といふのをば、聞き給ひては、神さへも御心いさみ立ちたまはん、と武將らしく、勢
よく詠じたのである。題詠の紙樂の歌は古來多いけれども、幽齋の一首、その中に在
つて月並みではない。


 山を我が樂しむ身にはあらねどもただ静けさをたよりにぞ住む

 雑部「閑居」。論語雍也第六に子曰知者樂水、仁者樂山、知者動、仁者静、知者
樂、仁者壽。中村揚齋の論語示蒙句解に云、仁者はおのづから義理に安んずるが故
に、厚重にして、かれこれ、うつりつかず、山野安鎮に似たることあるによりて、こ
れをこのむなり、仁者の體段すべて安静にて常なり、云々。幽齋は山を樂しむ身に
あらず、仁者にあらずと謙遜しながら、やはり山の静けさを愛すといふ。按ふに、彼
は知と仁とを、又もちろん勇とを兼ね備へた人であつた。知と勇とは云ふ迄もないと
して、仁者なりしことも、彼の傳
紀の處々から立證出來る。山に住むとは、形容では
なかろう。田邊の城山に永く住んだのは別としても、京都では吉田山麓に卜居した。
當時、鴨東の地は静かで、吉田も山里だつたのである。

 

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■有吉平吉のこと

2021-12-24 06:41:51 | 人物

 最近WEB上に「明智光秀の丹波支配と国衆」という論考を発見した。
京都先端技術大学の鍛冶教授のゼミの「吉田茉友」という方の論考である。
「令和二年のNHK大河が「麒麟が来る」に決定した」という書き出しであるから、令和元年もしくは一年ほどさかのぼる時期の発表だと推察される。

もう明智光秀の事は「お腹いっぱい」と思っているが、このような論考を見つけるとついつい目が行ってしまう。
その中に、細川家三卿家老・有吉家3代目の有吉平吉(四郎右衛門立行)に関する光秀の書状が紹介されている。
光秀が丹波の士豪、石川主馬助・新三郎・甚介・孫次郎の四名に宛てた平吉の身上に関するものである。

この書状は、大阪城天守閣事務所が所蔵するところであり、平成四年の「秀吉と大阪城展」で展示がなされ、図録にも掲載されている。
                                  

又、私が十数年来探し続け、最近ようやく入手した中垣良朗氏著の「有吉将監」(平成8年発刊)に於いても紹介されている。

     有吉平吉身上之事
     此間各御馳走之由承
     及候雖若輩候 御用にも
     被相立由承及候条 尤之
     儀候 弥於別儀者
     帰参之事藤孝へ御断
     申度候 於御入魂者
     可為祝着候 委曲御返
     事ニ可示給候 恐々謹言
            日向守
     十二月廿四日   光秀(花押)                                              日付が12月24日とあるのは、まったくの偶然である。

      岡本主馬助殿
      岡本新三郎殿
      岡本甚介殿
      岡本孫次郎殿
          御宿人々

 この文書の 「*各御馳走の由承り及び候」 の意訳についてはいささかの差異が見られる。
1、大阪城天守閣事務所では
 * そちら(岡本)で世話になっていることを伺いました。

2、中垣良朗氏著の「有吉将監」では
 * (光秀が斡旋して某家に仕官させた平吉のために)尽力してくれたことに感謝。
とあって、「光秀が斡旋した仕官先は不明である」としている。
大阪城の史料を手に入れ、「解読が及ばず・・・十分詳解していないことに気が付いた」と記される。

3、さて、京都先端技術大学の鍛冶教授のゼミの吉田茉友氏は
「(光秀は平吉を岡本氏に仕官させ)平吉が岡本氏のために用に立っていることを聞き、粗相な行動があれば藤孝の許へ帰参させる」と説明する。

有吉平吉(立行)は永禄元年(1557)の生まれである。
この書状は天正8年(1580)もしくは翌年頃のものと比定(吉田氏)されているから、当時平吉は23・4歳である。

光秀は平吉を「若輩者」と書いているから、もう少々時代は遡るのかもしれない。
各御馳走の由」をこのように意訳するためには、別途なにかしらの史料が存在しなければこのような確定的な判断はできないと思うのだが如何だろうか。
 

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