今回、24都府県41件の民俗芸能「風流踊」が、ユネスコ無形文化財遺産に指定される運びとなった中、熊本からは荒尾市の野原八幡神社の「野原(のばら)風流踊り」が含まれた。
熊本県の無形文化財から、一気ユネスコ無形文化財遺産に上り詰めた。
中世の野原庄のほぼ中心地に位置する野原八幡宮に伝わる「風流」は、「都風で貴族的な優雅さは、中世芸能の洗練された姿を伝えている」とされる。(熊本県地名辞典)
ちなみに「風流」とは「上品な趣があること。みやびやかなこと。また、そのさま。風雅。」とある。
心からお祝い申し上げたい。
今朝ほど連絡事項が有り、熊本史談会の毛利会長から電話が有りしばらく話し込む。
その中で「大窪地区」(実際は硯川地区)にある「日暮れ坂」に話が及んだ。
この道は何度も通ったことがある。旧国道3号線と県道31号線を結ぶ道である。硯川の1丁目・2丁目両地区を隔てて居り、上記部分に勘違いがあったので修正
地図で見ると上記説明の道の北側の弓状になった道で、広い道の坂の下にまさに「坂の下公民館」がある。
この道を加藤清正が横島干拓の視察に向かい、帰りは日暮れ時期になったという事から「日暮れ坂」と名付けられたという。
地元の「大窪町自治会広報誌」によると、「暮れの坂道標」の写真が紹介されており、「暮れの坂」とも呼んでいたことが判る。
地名辞典(平凡社)で「日暮れ坂」「暮れの坂」で探しても出てこない。これは如何なものか、改訂はちょっと考えられないがご一考のほどをお願いしたい。
その地名辞典をめくっている内に、花畑邸の南側にあった「日隠門」の事がただ語句のみ出てきた。黒御門と欅御門でも書いたが欅(槻)御門の事だろうか。
検討を要する。
今一つは、花畑邸から城内に向けて掛けられていた橋についての記述が有り、その時期は「慶応三年から明治三年までの間」とある。
平凡社の「熊本地名辞典」が書いているのだから間違いはないと思うが、始めて知る事だった。
という事は維新期に取り壊されたという事になる。屋根付き橋だったと聞くが、残っておれば格好の観光資源だったろうに。
時折「地名辞典」をひも解くと、知らないことが沢山出てくるまさに宝の山である。
薮内藏允正純のお墓は、熊本市横手の丘陵地にあるが、四方を民有地に囲まれて現在では入ることが出来ない。
何か解決策を見出さないと、まさに藪の中に埋没してしまう。そして忘れられよう。
この地が薮家の正式な墓地ではない。なぜ正純のお墓だけ(?)がここにあるのかが謎である。
つまり墓誌についても、見ることが出来ないという事になる。かって史談会の友人N君からもらったコピーが顔を出したのでここに記録する。
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藪正純墓誌 肥後名家碑文集・八
(明)
藩国老藪君 文政七年甲申三月二十三日 奉藩命赴于江都 四月七日病歿于赤石舟中 於是家臣僕從
輿柩而歸 五月二日 葬于熊府西 四方池之後丘 年六十八矣 初訃音之至都下 有志之士聞之 雖不知
君者 往々哀惜焉 伏惟本藩文明 賢良濟々 共和爲政 則君在之日 未嘗聞特有赫々之名 且廊廟之事
非閻魔之所敢知 則君建何嘉謀邪 納何正諫邪 将進何賢 而勲何不肖邪 誰復能聞之者 況■平素不
知君 及其死 哀惜焉者 有何所見而然也 有何所聞而然也 蓋聞誠於中 必形於外 則君平生寸丹之忠
悃 有自然感於人心者矣 君初爲参政 自謂 吾之贛愚 皆人之所知 吾不敢修邊幅以循俗尚 是君自言
其所短耳 然君之所長 其在于斯孚 夫不修邊幅以循俗尚 不柱性素以投時好 視諸世之尚機變 智巧
與人相依違 相推遷者 其相違如何哉 是有志之士 所以有望于君而惜其死也 君歿之明年 蕎小祥一
月 其嗣子來請余碑文 余自少壮時 辱承下交熟知其平素 則辤乃按譜 君祖先曰内匠頭 仕我三齋公
于豐前 食一萬二千石 後改禄老洛 次曰圖書 内匠君之第二子 賜二千石 次曰圖書 襲禄如故 次曰三
左衛門 為備頭 加賜千石 凡三千石 次曰右膳 次曰彌次右衛門 皆食三千石 其次則君也 君諱正純 穪
内藏允 父老襲禄 尚未弱冠 削二百石 既壯爲番頭 歴遷留守居大頭及備頭 又為中老 遂升於國老 歴
食數十年 賞加二百石 於是得復其舊也 祖先以来 世為将官 而至于君 始得入政府而握國釣 可謂光
榮矣 娶小笠原氏 早歿 有男五人 女二人 男長曰太郎助 告病家居 次曰莊次郎今改彌次右衛門 為嗣
襲禄三千石 班組外着座 次則嗣稲津氏 次則堀氏 次則為同族某養子 女一人則嫁木下氏 一人則嫁
志水氏 君為人肥大 資質忠朴 不設城府 外如踈嚝而内慎密 克矜小物而不細苛 善禮士下人 事有所
疑則必質焉 然至于其所操執 則雖衆猜群嗤不敢枉已 又氣力絶人 老而不衰 日上朝堂曾無倦色 夙夜
憂勤 晝日之所議退而思之 或中夜起坐而記焉 其精可知也 居家嚴粛 子弟侍側唯謹 服食清儉 目絶
紛蕐 不畜姫妾 外無便嬖 常好誦讀 日夕公退 乃命諸子 繙聖經賢傳 要語會心 必手自抄 以為書紳之
戒 又精國史野乗 古昔良將義士 攻代籌策等 地理形勢 名居年紀 靡弗諳記 毎會賓容故舊 置酒之間
盛談其事 尚論其人 常以為樂 若夫君能書射騎槍剣等之技 是乃武人之家事 吾不復道也 銘曰
學而入官 猶鮮有之 況官而學 豈多有之 少而敏學 猶鮮有之 況老而學 豈多有之
維茲薮公 既耄既耆 志胡囂々 學故孜々 聖言服膺 弗尚文舜 悪佞如臭 耆義如飴
始將後相 邦家之基 老成有典 丈人總帥 子弟考友 有政是施 家庭清簡 臨下是宜
暛孚薮公 古之遺矣夫 (辛島憲)