かってこのブログで、熊本のタウン誌・「すぱいす」に連載されていた「松寿庵先生とれき女様の江戸咄」を、「68回~最終243回」まで、掲載したことがある。
(ブログ内検索で松寿庵で検索してください)
「すぱいす」は熊本日々新聞が発行しているが、許可は得ていない。確信犯であって、お叱りを受けるかもしれないとは考えて居た。
しかし最終回に至ってもお叱りはなかった。そればかりか、松寿庵先生(松本寿三郎・元熊大教授)のお相手をされたれき女(松下康恵氏)氏から、このブログ掲載以前、熊本日々新聞の夕刊に連載された「歴史コラム・江戸咄」をまとめた「松寿庵先生江戸咄」という文庫本をご恵贈いただいた。
この文庫本はいつも私の身近にあって、時折ページを開いている。
二三日前締め切りのヤフーオークションに「■汁■菜」の献立らしい古文書が出品されていて、少々心を動かされた。
というのもこの本の第2項に「奉公人の数まで決めた石高」があり、つつましい食事事情であったとしている。
最後にれき女のコメントがあるが、「亭主のために実行したい武家の食卓」とあって、思わず笑ってしまった。
ここでは「二汁三菜」と書いてあるが、これは、同上コメントからすると、「一汁三菜」なのではないか?
これならダイエット出来そうだ。私とて小禄ながら武士の端くれ、「武家の食卓」にチャレンジしてみようかと思ったりした。
■財津大助は、(南東46-11)財津儀角家の8代目。家紋は「鬼浜洲紋」
■財津尉太は、(南東46-21)財津十次郎家の6代目。家紋は同上
■財津小十郎は、(南東46-18)財津藤右衛門家の5代目。家紋は「鬼州浜紋」「州浜紋」
■財津才蔵は、(南東46-20)財津市之進家の6代目。 家紋は同上
■財津猪兵衛は、(南東46-12)財津九八郎家の10代目。家紋は「鬼州浜紋」
■財津三左衛門は、(南東46-16)財津源之進家の7代目・日田山左右 名は永晟、三左衛門と称す。元財津氏晩年日田山左右と改称す。
藩に仕へ食禄百五十石。祖父以来八代御城付なりしが其孝心を賞せられ、番士となりて熊本に出さる。後天守方目付、
同支配頭を勤む。又藩の旧記に精しく藩譜採要十三冊を撰す。安政二年八月十三日没す。享年七十五。墓は寺原壽昌寺。
家紋は「鬼州浜紋」「子持ち隅入り立角にもみじ紋」
■財津団平は、(南東46-14)財津八郎家の5代目。家紋は「鬼州浜紋」「子持ち隅切り立角に州浜紋」
■財津善内は、(南東46-13)財津善之允家の6代目。家紋は「四つ州浜紋」
■財津団四郎は、(南東46-17)財津新八家の6代目・兵内(團四郎)。家紋は「隅立角に州浜紋」
■財津永八は、(南東46-15)財津民助家の8代目・栄八か?。家紋は「一つ右丁子巴紋」
■財満七右衛門は、(南東47-9)財満七左衛門は7代目・藤作(七右衛門)。家紋は「丸に(満の氵なし)文字紋」
■指田次郎左衛門は、「細川家家臣略系譜」に記載なし、指田次郎左衛門家の初代か??。家紋は「隅切り立角に井桁紋」
■境 喜三次は、(南東45-30)境 任八家の初代??。家紋は「丸に地紙紋」
新・肥後細川藩侍帳【き】の部
■木下三郎右衛門は、豊臣秀吉室高台院の甥・日出藩主木下延俊の三男を祖とする、(南東48-1)木下嘉納家の7代目・3,000石、小姓頭、番頭、留守居大頭などを勤めた。
家紋は「替り八つ日足紋」「木下家独楽紋」
■木村万之允は、(南東48-2)木村半平家の6代目・万之助・豊信(万之丈)。中小姓頭、小姓頭、留守居番頭、佐敷番頭などを勤めた。2,500石。
家紋は「平四つ目結紋」「松笠菱紋」
■木村清兵衛は、同上分家、(南東48-3)木村十内家の4代目・百十郎(清兵衛)。家紋は同上
■木村恵一右衛門は、(南東48-16)木村恒彦家の6代目・一郎太郎(恵一右衛門)。家紋は「隅切り立角に違い鷹の羽紋」
■木村吉九郎は、(南東48-14)木村荘三家の5代目。家紋は「松笠菱紋」「丸に(T)文字紋」
■木村九郎吉は、(南東48-5)木村又三郎家の6代目。家紋は「丸に三つ浜洲紋」「隅切り平角に木文字紋」