津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御侍帳・家紋から考える(61)

2022-11-24 13:10:03 | 家紋

                                 

                                                  新・肥後細川藩侍帳【し】の部

志水孫七郎は、(南東52-5)志水源八家の7代目、父は才助清冬、後治兵衛。藩に仕へ家老職となり、禄千五百石。宝暦の改革に力を致して
       其功著大なり。家紋は「林文字紋」

志水藤七は、同上分家、(南東52-6)志水三弥家の5代目。名は清穆。藩に仕へ食禄四百石、小姓役、郡代、用人、八代番頭、奉行職などを勤む。
       又学を好み大義に通じ武技に長ず。斎藤境野等の犬射を起すや與りて力あり。家紋同上
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志水新之允は、蒲生氏郷流
【青龍寺以来】志水伯耆清久(入道宗加)を祖とする志水一族5家の本家である。     
      (南東52-3)志水新九郎家の10代目・夘納(新丞)か。家紋は「   」「浜洲紋」 
■志水権之助は、同上分家、(南東52-7)志水隼太家の5代目・兵次(権之助)、郡代・用人・小姓頭など歴任。家紋は「   」「四つ浜洲紋」
志水流助は、同上分家、【青龍寺以来】(南東52-8)志水源九郎家の6代目、御歩頭などを勤めた。家紋は権之助家に同じ。 
志水九左衛門は、同上分家【青龍寺以来】(南東52-2)志水 凍家の5代目・九兵衛(九左衛門・武膳)、鶴崎・八代などの番頭を勤めた。家紋は「七宝紋」  
志水一学は、 (南東52-4)志水一太家の7代目・仙助(嘉兵衛・小左衛・一学)、家紋は「三つ七宝紋」「四つ浜洲紋」

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志方半右衛門は、
【丹後以来】(南東52-9)志方逸次家の10代目・蘭八(半右衛門)か。家紋は「矢筈」「三つ矢筈」
志方半兵衛は、同上分家【丹後以来】(南東52-11)志方仙太家の5代目・左内(半兵衛)。家紋同上
志方十兵衛は、同上分家【丹後以来】(南東52-10)志方軸人家の6代・又勝(十兵衛)。家紋は「四つ矢筈紋」
志方玄常は、同上分家 御医師 【丹後以来】(南東57-33 医)志方柳臺家の5代目。家紋は「三つ矢筈紋」  
志方小左衛門は、同上分家
【丹後以来】 (南東52-12)志方 半家の7代目。家紋は「四つ矢筈紋」
志方は、       名前の記載なく不明
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志賀太郎助は、祖は大友一族豊後岡城主の志賀氏、(南東51-19)志賀太郎家の7代目・太郎助親信。家紋は大友一族の「杏葉紋」「三つ引き紋」

下津久馬は、公家・久我右大臣道堅の三男・下津棒庵を祖とする(南東51-1)下津縫殿家、代々求馬を名乗り人物の特定は不可能である。
     家紋は「錠紋」「笹竜胆紋」

下河部熊之助は、(南東51-2)下河邊次郎太郎家の8代目。家紋は「丸に抱え柊紋」か?。

■下田万五郎は、(南東51-25)下田平三家の6代目。初代は忠利公に殉死した与左衛門正定。家紋は「井桁に一文字紋」

塩山孫大夫は、(南東52-18)塩山成海家の6代目・孫大夫(十内)。家紋は「六曜紋」
塩山仁左衛門は、同上分家(南東52-19)塩山騏三郎家、同名人が多く人物の特定が出来ない。家紋は同上

白石清兵衛は、(南東51-18)白石傳太家の6代目・右源(清兵衛・傳太)か。家紋は「亀甲に鷹の羽紋」

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■林真理子さんの述懐と私

2022-11-24 08:29:33 | 徒然

 あるTV番組での作家・エッセイスト林真理子氏の発言がインターネットでも紹介されている。
曰く「毎回毎回おもしろいもの書けなんて無理-エッセー連載の苦悩&本音」とある。
比較するにはおこがましい話だが、私も最近ネタ不足に陥り、書くことがなくなってきた。
書くことよりもネタ探しに一日過ごしているように思える。
何かしらネタはないかしらと、起きて椅子に座ったら本棚を眺めまわして、随分読んでいない本を引っ張り出して目を通す。
だからといって見つかる訳でもなく、三冊も四冊も目を通して「駄目だった」ことの方が多い。

 正岡子規の病床日記「墨汁一滴」や「病狀六尺」などを読むと、子規は「病狀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」と述懐する。
しかしながら、その世界は広大でその知識は限りなく、身を起こす事さえ激痛を伴う病床六尺の空間から、思想し評論しまた絵を書き、句作している。
親しい友人や編集者がが度々病床を訪れて、世にある著や古文書や、たまには絵であったりお軸などを持ち込む。
そんなものを見て、毎日激痛に耐えながら中身の濃い一文を新聞掲載の形で残した。驚嘆に値する。

 終活で相当量の本や資料を処分した。残りの者を焦りながら今日も知恵を絞り出さねばならない。
毎回毎回おもしろいもの書けなんて無理・・・・当たり前のことである。

コメント (2)
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