津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今朝の「目がテン」

2022-11-27 08:35:59 | 徒然

 所ジョージの「目がテン」熊本では日曜朝の7時から放映されるが、大好きな番組である。
今朝は「能登の里山‐白米千枚田」でのコメの植え付けから収穫までが取り上げられていた。
その中での田圃のガス抜きや草抜きの大変な作業の中で、画面に「沢潟」が見えかくれして雑草として引き抜かれているシーンがあった。
私はこの「沢潟」の形がすてきで、是非栽培したいと願ったが、手に入れるのが難しかった。
農家にとってはこのように厄介者の植物なのだ。
「欲しい/\」とブログに書いたら、お読みいただいた東京のY様から球根4個を送っていただいた。ご披露
それから13年になるが、毎年あの不思議な形の葉と、誠に可愛い白い花が咲くのを待ちわびている。
田圃の厄介者を一方では愛でようというのは、考えてみれば人間は勝手なものだ。
あの素晴らしい、沢潟の家紋のデザインに意味は、その形なのか、それとも相手を凌駕するような強さを愛でたのか・・・
我が家の水盤の中の沢潟は、いかにもは儚げで、とても稲作の大敵とは思えないのだが。
今は葉を枯らして、水盤の中に朽ち果てていく最中である。

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■下津家の幕紋「錠紋」

2022-11-27 06:57:20 | 家紋

                                                           
    先に■御侍帳・家紋から考える(61)を書いた。ここに下津家が登場している。
そして「竜胆紋」と共に紹介されているのがこの家紋である。私は四冊の家紋関係の本を持っているが、いずれにも紹介はない。
これをみて即座に正解される方は相当の家紋通と言えそうだ。
正解は以前に書いた、■下津久馬殿・政之助殿で幕紋として紹介されており「錠紋」とあった。
偶然の事だが、一昨日は■細川家家臣「下津氏」「津田氏」「松山氏」「八木氏」系図をご紹介した。
そして11月15日には■下津家-有吉家-加々山家を書いている。
                                                                            
 下津家の祖としての棒庵という人物は、鹿苑寺金閣の僧侶であったがのちに還俗、加藤清正の熱心な乞いに応じて家臣となった。
その時期についてははっきりしないが、天正年間清正の書状として棒庵を「鹿苑寺殿」と呼ぶ書状が有り、深い交流があったことが伺える。
熊本城築城や城下町の形成に多大な尽力をしている処を見ると、慶長の初め辺りには熊本にも来ていると思われる。
先にご紹介した「御大工棟梁善蔵ゟ聞覚控」にもその名前が挙がっている。
その尽力に対して熊本城には「棒庵坂」の名が残った。一方清正亡き後の内紛の引き金となった「牛馬騒動」の発端を作ったのがこの棒庵であり、皮肉な事ではある。
慶長8年に死去しているが、加藤家没落の前年であり肥後国は細川氏が治めることとなった。
息・下津将監が細川忠利に仕えた。

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