津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■延寶八年正月仰渡之事

2022-11-30 13:53:50 | 史料

                                   

                                         一延寶八年正月七日御備頭衆御用ニ付御奉行所へ罷出
               候儀延寶六年六月佐渡殿奉ニ而右之衆へ被仰渡之
               趣御事付ニ而御奉行所へ御渡候 然處ニ組付衆願之書
               付相組之者を使ニ被仕又ハ手紙を添家来ニ為持被差
               上候衆有之候為様之御用迄を自身被出能可有御座哉
               達 御耳申御用之儀ハ被罷出候様御座候而ハ為可有
               御座哉
              一養子願之事      一役儀御断申上候事
              一在宅願之事      一縁組願之事
              一世忰 御目見願之事  一屋敷拝領願之事
              一名を改申度由願之事  一前髪取之願之事
              一他国ゟ使者飛脚差越候付届之事
               右之書付仕御家老中へ入御披見候處ニ書付之内達
               御耳候儀者不残自分罷出候様ニ可申候旨佐渡殿
               被仰儀候事

 延寶八年であるから藩主は綱利、佐渡殿とあるのは筆頭家老で松井家5代の松井直之のことである。
過ぎる六年六月藩主から御備頭衆に対し、仰せの趣を御奉行所で申し渡しをしようとした所、組の者や家来を代理で出す者があった。
今般の仰せ出については、備頭本人が出頭することを申し渡している。
当時の備頭を調べてみると、松井直之・沼田延将・志水伯耆・沢村友雅・有吉貞親・小笠原長英・木下三郎右衛門・尾藤知英である。
上記の諸届があった場合は、家老中へ備頭本人が届ける様に即している。

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■「朱三」とは何・・?

2022-11-30 06:13:29 | 家紋

 先に■下津家-有吉家-加々山家を書いたが、これに関連する加賀山家の史料「奥田権左衛門家由来記」を過日図書館でコピーしてきた。
下津家女が三卿家老・有吉家の養女となり、加賀山家流奥田家に嫁いだが、5代目当主が家来を殺害して絶家となった。そのことを知りたいと思ったが故だ。
その他「加賀山家由緒略記」「加賀山氏画傳」も併せてコピーしてきたが、その一族でキリシタン(初代の長兄)として誅伐され殉教した加賀山隼人正興長などにも触れられている。
その隼人正興長の家紋は「隅立平角に三つ星」であることがスケッチされている。
                                                               
その後、奥田姓を名乗る家もでたが、この加賀山家の史料や、細川家の切支丹関係を詳しく調べられ、膨大な記録を上妻文庫として残された上妻博之先生は、この奥田家の血を受け継がれていることによる。 

 加賀山家に嫁いだ有吉家養女はこれらの記録からすると。隼人正の三弟・権左衛門家の3代目に嫁いでいるようだ。
三代目夫婦に就いて若干の記述がある。
2代目権左衛門には男子がなかったとあるが、3代目がどこから来られたのかは記されていない。
「岩越惣右衛門宅にて魚毒にあたり即死」とあるから、フグにでも当たられたのだろうか。
奥方は元文2年に疱瘡で死去されている。62歳。高麗門外長國寺に葬られたとあり、墓石には「紋は朱三と四ッ目結の二ッ付有之」とある。
四ツ目結紋は有吉家の定紋だが、前者の「朱三」で考え込んでしまった。これは難問である。

 「重三」という言葉がある。三つ重なり、つまり三月三日とか、さいの目二つ振ったらぞろ目になったとか、縁起が良いことに例えられる。
加賀山家の家紋の三つ星もそのような縁起を担いだものと思われるが、上記家紋からするとこの家紋を指していると思われるが「朱」がよく判らない。
まさか「朱」を「じゅう=重」と読ませての事ではなかろう。いつか長國寺に出かけて確認しなければならない。

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