津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「阿部一族」と、御犬曳き・津崎五助の殉死

2022-11-06 12:38:42 | 論考

    御厚誼をいただいている北九州在住の小川研次氏には、過去に於いていろいろな論考をお寄せいただいた。
その一つに、「阿部一族」に関しても以下のような多くの論考を当サイトでご紹介をしてきた。

                 ■「阿部一族」の一考察(1)
     ■「阿部一族」の一考察(2)
     ■「阿部一族」の一考察(3・了)
     ■秘史・阿部一族(1)
     ■秘史・阿部一族(2)
     ■秘史・阿部一族(3)
     ■秘史・阿部一族(4‐了)
     ■阿部弥一右衛門
     ■宇佐郡大字山の貴船神社にある弥一右衛門の墓碑 
     ■「田川キリシタン少史」-(1)
     ■原稿差し替え「阿部一族の一考察」の宗像兄弟
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・1
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・2
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・3
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・4
     ■森鴎外『阿部一族』の一考察

 今回は御犬曳き五助の殉死に係わる一稿だが、この五助に関しては大友宗麟の曾孫にあたる松野縫殿助が
介錯を勤めて居り、私は大いなる違和感を感じていたが、今回の論考を拝見し納得するに至った。

小川氏のご研究に感謝を申し上げる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       四、津崎五助長季(年齢、殉死日不明)

    森鷗外本『阿部一族』でも有名な六石二人扶持の御鷹方「御犬牽」の五助である。
    忠利が鷹狩りの際に伴っていた猟犬の世話係りであった。殉死場所の高琳寺で犬に
    向かって、「おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれ
    はそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院で井戸に飛び込んで死
    んだ。どうじゃ。おぬしもおれといっしょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬に
    なっても、生きたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、
    食うなよ。」と言った。しかし、犬は「五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食お
    うとはしない。」五助は「それならおぬしも死ぬるか」と言って「犬をきっと見つ
    めた。犬は一声鳴いて尾をふった。」そして五助は不憫に思った犬を脇差で刺した
    のである。このエピソードは『綿考輯録』や『忠興公御以来御三代殉死之面々』に
    も記されており、『阿部茶事談』に拠ったと思われる。但し、『綿考輯録』では
    「岫雲院」は「春日寺」となっており、鷹の殉死は「御葬送之節」だが、鷗外本は
    「荼毘の最中」としている。
    五助の介錯人は松野縫殿助(親政)である。父は親英(織部)、祖父は大友宗麟二男親家
    (利根川道孝)で細川家に仕えた敬虔なキリシタン一家である。
    ここで、五助の出自だが、推考してみよう。
    天正七年(一五七九)に親家が国東郷の田原氏を相続した時に、反大友の狼煙を上げ
    た田原親貫と戦うことになる。(田原親貫の乱) 翌年、勝利を得た親家は旧田原家の
    津崎氏を加判衆にしている。(「津崎文書」『大分県史料』)また、津崎氏宛の親家
    の「感状」「安堵状」「書状」の写があるが、津崎善兵衛宛書状の奥書に国学者後
    藤碩田による「明治二年八月廿七日寫終」とあり、「此津崎氏ハ熊本在土」と加筆
    している。(同上)
    また、『於豊前小倉御侍帳』に「津崎善右衛門」があるが、大友一族と共に細川家
    に仕えたと考えられる。大友家との関係から五助はこの津崎一族の可能性は高い。
    五助の法号は「心了助庵」(『綿考輯録・巻五十二』)で「助庵」は洗礼名「ジョア
    ン」(ヨハネ)でキリシタンであったと推される。
    聖書の「ラザロと犬」(ルカ福音書16章19-31節)の話を彷彿させる。貧しいラザロ
    は金持ちの家の門前で食物を待っていた。そこへ犬もやってきてラザロの身体の
    できものを舐め始めたのである。やがてラザロと犬は天国へ行ったという。
    「五助と犬」は『阿部茶事談』に於いて最もキリスト教的な描写である。
    元文元年(一七三六)八月、津崎家が「奥田権左衛門家士水野孫三と申者之三男を
    養子いたし貞次と申候」(同上)とあるが、キリシタン権左衛門正慶(加賀山隼人甥)
    の四代目同名正英である。この代で断絶となる。(「奥田権左衛門家由来記」『肥
    後細川藩拾遺』)
    但し、「私家来転切支丹奥田権左衛門系」類族としてキリシタン穿鑿の対象となっ
    ていた。(『肥後切支丹史』)
    気になるのは、後述する阿部弥一右衛門の条に「一説、津崎五助より跡に付候由」
    (『綿考輯録・巻五十二』)とある。

    推測だが、弥一右衛門は「(先に)跡に付候由」とし、「跡」は痕跡の意で過去の現
    象のしるしである。つまり、弥一右衛門は五助より先に殉死していたのではなかろ
    うか。五助の殉死日について『綿考輯録』編者は判断しかねているが、「日帳」か
    ら判断すれば弥一右衛門と同じ四月二十六日であるが、それ以前とも考えられる。
    あえて弥一右衛門の条に五助を記したのは五助の殉死についての関連があったと考
    えられる。五助がキリシタンであったならば、自死は深い罪となる。その迷いがあ
    ったのではなかろうか。ここでは弥一右衛門がキリシタンであったことは論じない
    が、そうであれば可能性はある。
    『三斎公御以来御三代殉死之面々』に高琳寺(現在廃寺)に「霊犬之塚」が存ずと付
    記している。
    鷗外は「高琳寺」に触れた時、少年期を過ごした故郷津和野の同名の寺を想ったこ
    とだろう。ここは明治元年(一八六八)から六年までの五年間、長崎浦上のキリシタン
    が配流された場所である。現在は乙女峠マリア聖堂として殉教の悲劇を伝えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「袖引き九兵衛」の晴れの舞台、そしてその死

2022-11-06 06:47:01 | 人物

 慶安2年(1649)12月26日、細川光尚は31歳という若さで死去した。
長男の六丸(綱利)はまだ7歳と幼かったため、光尚は幕府に対し応分の働きが出来ないと「如何様になっても公儀の望み通りに願いたい」と申し出て息を引き取った。
残された家士の動揺は如何ばかりであったろうか?、重臣たちは幕府に対し、六丸の家督相続を認めてもらうために奔走した。
江戸に在った沼田勘解由、熊本からは家老松井興長の養嗣子・若干17歳の寄之、足軽大将・都甲太兵衛そして梅原九兵衛などが急遽江戸へ下り、特に九兵衛はかって親交深い酒井雅楽頭との折衝に当たった。
梅原九兵衛は実は長曾我部盛親の一族であり、長曾我部宮内少輔泰信と名乗っていた。長曾我部氏没落後浪人し、梅原十助という人物の養子となった。のち、柳生但馬守(宗矩)に仕えて剣の道にも秀でていたため、柳生氏の推挙により細川家家臣となっていた。
今回の細川家存亡の大事にあたり、家老・松井佐渡興長はこの九兵衛をは密かに呼び寄せて存念を語り、万事を託したのである。
「肥後先哲遺蹟」は次のように記している。
     
   其方事兼て酒井雅楽頭忠世の御入魂たる故に、江戸に於て晝夜となく、忠世の屋敷に出入する身なれば幸の便なり、
   今度江戸へ馳上り、彼邸へ参上して、様々に御頼を申上候て、佐渡存念の趣委く申含、自然此願叶まじきに於ては、
   席を不去して、其方覺悟仕べしと申候、九兵衛申は、委細仰の趣承りぬ、先以新参の私、ケ様の御使をも相勤可申者
   と、御見立に預候事、忝仕合、武士の本意と存すれば、此節の御奉公、随分共相勤可申と申候、(中略)
   其後九兵衛江戸へ到着し、酒井雅楽頭へ参向し、忠世の側近く寄申候は、今度六丸(綱利)未幼年たるを以て、肥後
   守跡式御減少にも成べき由、風聞も仕、二つには何とやらん、細川帯刀へ分知をも仰付らるべしとも相聞候、此儀實   
   説なるに於ては、長岡佐渡を始、家中の者共、一圓に難奉得其意、其故は先祖以来、別ては三齋関ケ原表の一亂の節、

   度々御奉公をも相勤、御代々御懇意を蒙り、相續て故越中守(忠利)にも、右の趣を以て、肥後國一圓拝領せられた
   る所に、越中守殿 肥後守の誤か 短命にて御奉公をも不申上段、可仕様も無之、若今度分知仰付らるゝとの上意を承りた
   る上にて、何かと愚意を申上候は、公義へ奉對恐多存じ奉候間、前以御内々奉願候、願くば忠世公の御執奏を以て、
   先規の如く、肥後國一圓に拝領せられるに於ては、家老共を始、何れも難有奉存候、随分共六丸を守立、御奉公をも

   仕候様に育上度存念の趣、潜に私を以て奉願候、萬一願通には仰付られ難き御意を承るに於ては、其方了簡とは、是
   又如何可仕哉と尋られ候時に、九兵衛頭を上、私了簡とは、外にはござなく候とて、懐より小釼を取出し、右の手に
   持、左の手にては忠世の袂に取付べき勢をなし、是の如くに仕る外無之と、面色を變申候へば、雅楽頭高聲に、やれ
   やれ九兵衛かたくろしや、肥後國一圓に、前の如く不賜して可相濟哉、國士は扨々かたましとて、御笑なされ候に付、
   九兵衛押返し、彌左様にござ候やと申候へば、何が扨今の通少も相違あらじと云、其時九兵衛懐釼を捨、末席に下り、
   只今の御意の趣、六丸へ申聞せば、六丸後來身を終る迄、忠世公の御厚恩、何とか忘れ申べき、次では家老共を始、
   一家中の末々迄、嘸難有可奉存、随て私も平日の御懇意に募り、慮外を働き過言仕申候、御機嫌の程も奉恐入候、然
   れども忠義の至誠と思召れ、御免を蒙ると申て、九兵衛は席を立、酒井家の者共、此體を傳聞、袖引の梅原と云、

 細川家存続のために最大の努力をし、家中の尊敬の的になったと思われる九兵衛だが、その死は誠に痛ましいものであった。
                ■袖引き九兵衛の死                  
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする