御厚誼をいただいている北九州在住の小川研次氏には、過去に於いていろいろな論考をお寄せいただいた。
その一つに、「阿部一族」に関しても以下のような多くの論考を当サイトでご紹介をしてきた。
■「阿部一族」の一考察(1)
■「阿部一族」の一考察(2)
■「阿部一族」の一考察(3・了)
■秘史・阿部一族(1)
■秘史・阿部一族(2)
■秘史・阿部一族(3)
■秘史・阿部一族(4‐了)
■阿部弥一右衛門
■宇佐郡大字山の貴船神社にある弥一右衛門の墓碑
■「田川キリシタン少史」-(1)
■原稿差し替え「阿部一族の一考察」の宗像兄弟
■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・1
■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・2
■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・3
■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・4
■森鴎外『阿部一族』の一考察
今回は御犬曳き五助の殉死に係わる一稿だが、この五助に関しては大友宗麟の曾孫にあたる松野縫殿助が
介錯を勤めて居り、私は大いなる違和感を感じていたが、今回の論考を拝見し納得するに至った。
小川氏のご研究に感謝を申し上げる。
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四、津崎五助長季(年齢、殉死日不明)
森鷗外本『阿部一族』でも有名な六石二人扶持の御鷹方「御犬牽」の五助である。
忠利が鷹狩りの際に伴っていた猟犬の世話係りであった。殉死場所の高琳寺で犬に
向かって、「おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれ
はそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院で井戸に飛び込んで死
んだ。どうじゃ。おぬしもおれといっしょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬に
なっても、生きたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、
食うなよ。」と言った。しかし、犬は「五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食お
うとはしない。」五助は「それならおぬしも死ぬるか」と言って「犬をきっと見つ
めた。犬は一声鳴いて尾をふった。」そして五助は不憫に思った犬を脇差で刺した
のである。このエピソードは『綿考輯録』や『忠興公御以来御三代殉死之面々』に
も記されており、『阿部茶事談』に拠ったと思われる。但し、『綿考輯録』では
「岫雲院」は「春日寺」となっており、鷹の殉死は「御葬送之節」だが、鷗外本は
「荼毘の最中」としている。
五助の介錯人は松野縫殿助(親政)である。父は親英(織部)、祖父は大友宗麟二男親家
(利根川道孝)で細川家に仕えた敬虔なキリシタン一家である。
ここで、五助の出自だが、推考してみよう。
天正七年(一五七九)に親家が国東郷の田原氏を相続した時に、反大友の狼煙を上げ
た田原親貫と戦うことになる。(田原親貫の乱) 翌年、勝利を得た親家は旧田原家の
津崎氏を加判衆にしている。(「津崎文書」『大分県史料』)また、津崎氏宛の親家
の「感状」「安堵状」「書状」の写があるが、津崎善兵衛宛書状の奥書に国学者後
藤碩田による「明治二年八月廿七日寫終」とあり、「此津崎氏ハ熊本在土」と加筆
している。(同上)
また、『於豊前小倉御侍帳』に「津崎善右衛門」があるが、大友一族と共に細川家
に仕えたと考えられる。大友家との関係から五助はこの津崎一族の可能性は高い。
五助の法号は「心了助庵」(『綿考輯録・巻五十二』)で「助庵」は洗礼名「ジョア
ン」(ヨハネ)でキリシタンであったと推される。
聖書の「ラザロと犬」(ルカ福音書16章19-31節)の話を彷彿させる。貧しいラザロ
は金持ちの家の門前で食物を待っていた。そこへ犬もやってきてラザロの身体の
できものを舐め始めたのである。やがてラザロと犬は天国へ行ったという。
「五助と犬」は『阿部茶事談』に於いて最もキリスト教的な描写である。
元文元年(一七三六)八月、津崎家が「奥田権左衛門家士水野孫三と申者之三男を
養子いたし貞次と申候」(同上)とあるが、キリシタン権左衛門正慶(加賀山隼人甥)
の四代目同名正英である。この代で断絶となる。(「奥田権左衛門家由来記」『肥
後細川藩拾遺』)
但し、「私家来転切支丹奥田権左衛門系」類族としてキリシタン穿鑿の対象となっ
ていた。(『肥後切支丹史』)
気になるのは、後述する阿部弥一右衛門の条に「一説、津崎五助より跡に付候由」
(『綿考輯録・巻五十二』)とある。
推測だが、弥一右衛門は「(先に)跡に付候由」とし、「跡」は痕跡の意で過去の現
象のしるしである。つまり、弥一右衛門は五助より先に殉死していたのではなかろ
うか。五助の殉死日について『綿考輯録』編者は判断しかねているが、「日帳」か
ら判断すれば弥一右衛門と同じ四月二十六日であるが、それ以前とも考えられる。
あえて弥一右衛門の条に五助を記したのは五助の殉死についての関連があったと考
えられる。五助がキリシタンであったならば、自死は深い罪となる。その迷いがあ
ったのではなかろうか。ここでは弥一右衛門がキリシタンであったことは論じない
が、そうであれば可能性はある。
『三斎公御以来御三代殉死之面々』に高琳寺(現在廃寺)に「霊犬之塚」が存ずと付
記している。
鷗外は「高琳寺」に触れた時、少年期を過ごした故郷津和野の同名の寺を想ったこ
とだろう。ここは明治元年(一八六八)から六年までの五年間、長崎浦上のキリシタン
が配流された場所である。現在は乙女峠マリア聖堂として殉教の悲劇を伝えている。