全国藩校サミット・熊本事務局の牧様(史談会会員)から、本年の「第20回・全国藩校サミット 文京大会」の記念誌を頂戴した。
厚く御礼を申し上げる。
熊本では平成20年の第7回大会を開催している。なつかしい思い出が頭をよぎる。全国に旧藩時代に存在した藩校は81存在するという。
それぞれの地の教育に多大な貢献をした藩校だが、明治維新とともに大方の藩校は姿を消した。
しかしその影響は営々とその地の文化形成などに大きく寄与している。
今後ともさらなる努力をされて、このサミットが続けられることを切望する。
全国藩校サミット・熊本事務局の牧様(史談会会員)から、本年の「第20回・全国藩校サミット 文京大会」の記念誌を頂戴した。
厚く御礼を申し上げる。
熊本では平成20年の第7回大会を開催している。なつかしい思い出が頭をよぎる。全国に旧藩時代に存在した藩校は81存在するという。
それぞれの地の教育に多大な貢献をした藩校だが、明治維新とともに大方の藩校は姿を消した。
しかしその影響は営々とその地の文化形成などに大きく寄与している。
今後ともさらなる努力をされて、このサミットが続けられることを切望する。
寛永15年(1638)の天草島原の乱に於ける細川家の奉公ぶりは、軍役を上回る出兵とともに人的被害や経済的負担はその後の藩運営に危機的影響をもたらした。
それから9年後の正保4年(1647)、今度はポルトガル船が長崎に来航、戦にはならなかったものの出兵の総数は 11,301人に及び、その内加子が4,896人、船の数は447隻に及んだ。
寛永16年にはいわゆる「鎖国令」が出されて、ポルトガル船の来航は禁じられた。
翌17年には貿易再開を申し立ててポルトガル船が来航している。私は最近まで知らなかったが、この時徳川幕府は使者61人を殺害したという。
黒人などの水夫などは帰国させた。
幕府はその報復を恐れて18年~19年と福岡藩や佐賀藩に長崎の警備が申し付けられた。遠見番所などが設けられた。
そんな中正保4年、ポルトガル船2隻が長崎に来航したのである。遠見番からの報告を受けて九州の大名に出兵が求められた。
正保四年ポルトガル船長崎に来航-- 1
正保四年ポルトガル船長崎に来航-- 2
「来るべくして来た」ポルトガル船だが、7年前の多くの同胞の死の報復のためで在ったのかは定かではないが、そのことを盾にした貿易再開交渉が行われたのは間違いなかろう。
幕府は徹底的な拒否に徹し、九州各藩の出兵を要請してポルトガル船の国外退去を促した。
実質的に作戦の差配をしたのは、細川藩の家老・長岡監物(米田是季)だが、船橋で湾を封鎖するとともに、「藁や薪」を積ませた多くの小舟で取り囲ませて放火の準備をしながら退去を促した。
湾の奥深くにある「出島」は、かってポルトガル商人のために建設された人工島である。時は移りオランダ商人の居留地となっていた。
ポルトガル船は、交渉の行き詰まりと船の危険な状態にかんがみ、むなしく長崎を離れて帰国の途に就いた。
戦費の負担など藩主光尚の苦労は絶えなかったが、2年後の慶安2年(1649)の末に死去することになる。