津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■古文書8「肥後国熊本藩6代藩主細川重賢より松平長孝(越後守)宛書状写」

2023-12-18 08:35:32 | オークション

                古文書8「肥後国熊本藩6代藩主細川重賢より松平長孝(越後守)宛書状写」 

  「重賢君よ里松平越後守様江御返歉之写之由にて府内御近習衆之所持せしを写しよし」とある。
   古文書読み下しの勉強には格好の書歉である。

       

        

       
                                            

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■忠興の眼疾

2023-12-18 07:00:44 | 歴史

 細川忠興の眼疾はよく知られるところだが、豊前入国時にはすでに悩ませられていたらしい。
まずは中津に入った忠興だが、小倉に城普請を始めた際、小さな祠があったので「汚穢を如何」と思し召して「潔清の地」に移した。
ところが此処で眼疾が出たので、周りのものが「これは神の祟りかもしれないので、祠を元の位置に戻しましょう」と言うと忠興は、「この神は邪神だ」と怒り出し、その祠を捨てさせたという。
そうしたら完治したというのである。
しかしながら眼疾は完治しないところを見ると、「神の祟り」があったのかもしれない。

 眼疾が顕著になったのは、元和に入ってからの事らしいが、「此の節御家中ニ而も銘々祈願等仕候由・・・云々」とあり、深刻な状態が窺がわれる。元和二年二月廿九日の書状は「此比御眼病以野外ニ被差発候」として、本文には「我々儀此比目を散々煩候、今之分候は本復可仕か本復仕間敷かと申半ニ候」と失明の心配をしている。それは二月七・八日頃からの事で「両眼共ニひしと見へ不申候事」だとしている。
 「大日本近世史料・細川家史料」を見ていると、医師の名前が度々出てくる。今大路氏や半井氏などの幕府にも仕える名医や、王珍・三官・少峰などの明国人、三盛・分清・玄也などとともに、眼科医の岡平兵衛、真嶋圓房(大坂)等の名前が見える。重病人が出ると早飛脚を立てたり、六十人ほどの加子による早船を仕立てたりして、京の名医を連れに行くということが度々行われている。眼が悪い忠興は、そういう意味でも京・大坂に在りたい気持ちは深かったであろう。
側近の佐方宗佐の元和二年の「眼病平癒」の絵馬奉納をしたらしく、その写しなど残されていて、家臣一同の心配も一方ならぬものであった事が窺がえる。

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