流長院広徳寺は、熊本市中央区壺川一丁目4-23にある曹洞宗のお寺で、慶長5年伝志麟的和尚の開基により建立された。
■下津家(安国寺にも墓地あり)
■大河原家
近江松平氏に仕えていたが浪人し、寛永11年熊本召し出し、代々要職を勤め1,000石を領し明治に至った。
■境野家
妙應院(綱利)時代の召し出し。400石。5代嘉十郎は「犬追物」を復活させて著名である。
■松下家
初代・市之進の父松下清蔵(壱岐守三綱)は加藤家家臣で、清正女・搖林院の紀伊大納言頼宣輿入の際 附人を勤めた。
初代・市之進一意は春日局の兄・斎藤利宗(清正臣)の女婿で、父没後忠広により跡式知行千石、加藤家没落後牢人、豊前にて忠利に依り召し出し1,000石。
熊本に配流となった春日局の息・稲葉正利の世話役を務めている。(大日本近代史料・細川家史料十五)
■佐々布家
■佐分利家
■深野家
■本庄家(2・3代は柴任氏)
■嘉悦家
加藤肥後守家臣1,500石加藤家没落後、細川家に召し出される。
■松山家 松山繁家【丹後以来】(南東(38-4)
初代は加納曲斎、相国寺の首座であったが田辺城籠城に参加、豊前にて1,500石・町奉行。二代目兵左衛門代から松山姓を名乗る。代々1,000石要職を勤め明治に至る。
■蒲池家
筑後国山下城城代を勤めていたが秀吉の九州征伐により筑前にて麾下となりその後浪人、後細川家召し出し。五代喜左衛門が奉行職を勤め、中老・大奉行職兼職に上り詰めた。
■高本家
家祖・李宗閑は朝鮮王族で文禄の役の折捕虜として日本にいたった。初代慶宅は熊本城内に住して、慶宅坂の名を残している。
5代慶順(号・紫溟)は養子だが藩校時習館の3代目教授を務めた。銀台遺事の著者。
■山内家
(只今書き込み中)