正保2年12月2日に死去した細川三齋の葬儀は、今日12月5日に泰勝院(泰勝寺)で執り行われた。
施主である孫の光尚は、父・忠利については妙解時を建立して墓所としたが、祖父・三斎は三斎自身が建立した父・藤孝(幽齋)が眠る泰勝寺に葬った。
蓑田平七正元、久野与右衛門宗直、小野伝兵衛友次、宝泉院勝延、興津彌五右衛門の五人の殉死者が出たが、この日、そのうちの二名蓑田平七と宝泉院勝延がそれぞれの地で、殉死した。
その一人蓑田平七の介錯を頼まれたのが、当家初代の兄・磯部長五郎である。
綿孝輯録・巻二十五(第三巻 忠興公・下 P323)では、三齋歿後の三齋御附衆の去就が次のように記されている。
三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛 半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候 何れも御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井戸(井門)文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿江勤も有之、御暇申候も有之、熊本江被召候も有之候、八代は長岡勘解由・丹羽亀之允・伊丹半弥等差越候間、御城引渡思ひ々々に立去り申候
【参考】
正保二年十二月二日申ノ刻、於八代御城御逝去
同 十二月五日、於泰勝院 今之泰厳寺之地、其節之泰勝院也 御葬礼有之、追々殉死の面々都合五人左之通
・十二月五日 蓑田平七正元(23歳)
・十二月八日 久野与右衛門宗直
・十二月某日 小野伝兵衛友次(25歳)
・十二月五日 宝泉院勝延
・正保四年十二月二日 於京都大徳寺 興津弥五右衛門景吉(54歳)