津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川三斎の葬儀と殉死者

2023-12-05 13:20:48 | 熊本地震

 正保2年12月2日に死去した細川三齋の葬儀は、今日12月5日に泰勝院(泰勝寺)で執り行われた。
施主である孫の光尚は、父・忠利については妙解時を建立して墓所としたが、祖父・三斎は三斎自身が建立した父・藤孝(幽齋)が眠る泰勝寺に葬った。

 蓑田平七正元、久野与右衛門宗直、小野伝兵衛友次、宝泉院勝延、興津彌五右衛門の五人の殉死者が出たが、この日、そのうちの二名蓑田平七宝泉院勝延がそれぞれの地で、殉死した。
その一人蓑田平七の介錯を頼まれたのが、当家初代の兄・磯部長五郎である。

   綿孝輯録・巻二十五(第三巻 忠興公・下 P323)では、三齋歿後の三齋御附衆の去就が次のように記されている。
三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛 半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候 何れも御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井戸(井門)文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿勤も有之、御暇申候も有之、熊本被召候も有之候、八代は長岡勘解由・丹羽亀之允・伊丹半弥等差越候間、御城引渡思ひ々々に立去り申候

 【参考】
 正保二年十二月二日申ノ刻、於八代御城御逝去
    同  十二月五日、於泰勝院 今之泰厳寺之地、其節之泰勝院也 御葬礼有之、追々殉死の面々都合五人左之通
   ・十二月五日 蓑田平七正元(23歳)
   ・十二月八日 久野与右衛門宗直
   ・十二月某日 小野伝兵衛友次(25歳)
   ・十二月五日 宝泉院勝延
   ・正保四年十二月二日 於京都大徳寺 興津弥五右衛門景吉(54歳)
  

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■「季節柄の赤穂義士物」地図散歩

2023-12-05 06:58:35 | 地図散歩

              

 11月の史談会例会に、山鹿市にお住いで(財)中央義士会の理事をされているM様のご出席をいただいていた。
名刺交換をした後、ぜひ当会で赤穂義士に関わる講演をお願いしたところだった。
昨日、「切絵図・現代図であるく江戸東京散歩」を眺めていたら、巻末に近いところに「古地図で楽しむ忠臣蔵の世界」が4頁にわたり掲載されていたので見入ってしまった。

 私は中央義士会監修・発行の「赤穂義士の引揚げ」という書籍を持っているが、引っ越し以来、行方知れずのこの本をおおごとして捜索、ようやく見つけ出して久しぶりに拝見したという次第である。これも大変詳しく凱旋のルートが紹介されている。
頁をめくっていたら、「刊行に寄せて」に、先の山鹿のMさまが「山鹿も勉強します」という一文を乗せられていてビックリしてしまった。
山鹿は「堀内傳右衛門覚書」を著した堀内傳右衛門が、義士の遺髪を収めた日輪寺があるところであり、お話によると熱心な会員の方々が集まられて顕彰に励まれているとお聞きした。


 付けたし
赤穂浪士はこと成就して泉岳寺へ向かう途中、旧浅野家藩邸(現・聖路加病院一部)近くを通ったと認識していたが、どうやらこれは私の間違いで、当時あった「軽子橋」は廃橋となっており、これを渡った後対岸から旧藩邸を拝んだというのが正解らしい。直進すると築地本願寺である。
知らない土地ながらも、地図散歩はなかなか楽しい。

   

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