森鴎外に「都甲太兵衛」という小説がある。私のサイトの中の「津々堂・電子図書館」に収蔵しているが、これは当時「青空文庫」でも紹介されていないからUPしたものである。
この小説は大方二つの逸話を主題にしている。一つは忠利公の御意に対し宮本武蔵をして「御用に立つべき人物」として評価されたこと、二つ目は江戸城普請における石泥棒の逸話である。
宮本武蔵に関わる「武公傳」を読むと、武蔵の直弟子・道家角左衛門の言葉が次のようにある。
武公直弟道家角左衛門曰、或トキ武公ノ打話ニ、俺大勢ノ人ヲシルニ、都甲太兵衛ホド鋭氣アル人ヲ見ズ。莅事氣ヲ奪ハルマジキ人也トアリ。
武蔵が平生、太兵衛のことをそう思っていたことを物語っている。
それが顕著に表れたのが、いわゆる「石泥棒事件」であろう。雑録「都甲文書」を引用してみよう。
江戸城築城ノ時諸侯ニ課シテ石ヲ納メサセラレシガ時ニ肥後藩ハ非常ノ困難ニテ中々納マリ兼シニ都甲太兵衛
我ニ一策アリト申受テ人夫ヲ引連他ノ諸侯ノ運ヒテ来ル石ノ標ヲ取除ケ肥後ノ表ヲ打数日ノ間二納メ済タリ
既二シテ事発覚シ直二幕吏二捕縛セラル 白状セサル二ヨリ拷問ノ数ヲ尽シ遂二膝上ニ石ヲ積ミタレハ骨モ砕
ケ肉モ砕ケ血流ルトモ無言ナリ 因テ股肉ヲ穿チ醤油ヲ熱シテ流シ込ミケリ 肉ハ穴カラ持上リ山桃ノ如シ
然レトモ白状セズ 最早拷問ノ手モ尽果テ一策ヲ考へ石盗人都甲立テト呼ハレトモ動カズ ソコデ細川ノ士都甲
御疑晴レタリ罷立ト呼ハリシガ悠然トシテ立去レリ 此故ニ都甲ノ家二テハ今二至テ山桃ヲ食セストナリ
「大日本近世資料・細川家資料十一」によると、「寛永十一年十月に入ると、江戸城普請についての情報が流れ始め、十一月九日付の幕府年寄奉書(十一月晦日熊本着)により、正式に、翌々年の江戸城普請が命じられた。細川氏は石垣普請の担当とされているが、すでに十月段階から普請道具や石場の準備等に取りかかり、金策のことも心配し始めている(二六四七・二七三四号等)。さらに、家光の本心は翌々年よりも、翌年に普請を行いたいのではないかと忖度し、幕府の普請奉行たちに対して来年七月八月からの普請開始を内々申し入れてもいる(二七三五・二七三六号)。」とある。
これが都甲太兵衛の事件が起きた石垣普請であるのかどうかははっきりしない。
この事件が本当だとすると、細川家としてはとても記録には残せないであろう。武蔵がいみじくも言った「御用に立つべき人」ではあるが、褒め称えるわけにもいかぬ事件ではある。
それでも細川家はお努めを果たした。
しかし「山桃」の形容には、何とも背中が寒くなる。